概要
第52・53・54代内閣総理大臣。
対米追従一辺倒外交と軽武装偏重の政策を批判、早急な憲法改正と国防軍の創設に着手すべしと明言した。
政治活動では確かな戦略をもって戦術に拘泥しなかった。
略歴(1883年1月1日~1959年3月7日)
父・鳩山和夫は弁護士で衆議院議員兼東京市議(所属:立憲改進党)。専修学校(専修大学)設立に参加し、東京専門学校(早稲田大学)の校長も務めた。
1907年、東京帝国大学法科大学(東京大学大学院法学政治学研究科・法学部)卒業後、父の弁護士事務所に勤務。
1908年、寺田栄(右翼団体・玄洋社出身)の長女・薫と結婚。
1911年、父が死去。
1912年、父の補欠選挙で東京市会議員に初当選。
1915年、立憲政友会公認で衆議院議員に当選。
1918年、長男・威一郎(後に衆議院議員)誕生。
1930年、親軍議員として統帥権干犯問題で浜口雄幸内閣(立憲民政党)を攻撃。
1931年、犬養毅内閣の文部大臣として初入閣。五・一五事件による犬養暗殺後も斎藤実内閣で引き続き文部大臣を務めた。
1933年、京都帝国大学法学部の瀧川幸辰教授の講演を問題視する右翼議員らと共に「赤化教授」の追放を主張。瀧川の休職処分に抗議し、京大法学部は全教官が辞表を提出し小西総長も辞職(滝川事件)。
1934年、汚職の疑いをかけられ(帝人事件)辞職。齋藤内閣も総辞職。
1939年、政友会の分裂に伴い久原派に属するが、久原房之助とも対立するようになる。
1941年、太平洋戦争勃発。
1942年、軍部の台頭に批判的な芦田均らと同好会を結成し、総選挙で大政翼賛会非推薦で立候補し当選した。
1943年、東條内閣の戦時刑事特別法改正案に反対して翼賛政治会を脱会し、軽井沢で隠遁生活を送る。
1945年、終戦後、日本自由党を結成し初代総裁となる。
1946年、総選挙で日本自由党が第一党になるが、首相就任を目前に公職追放。吉田茂を後継総裁に指名(第1次吉田内閣)。
1951年、脳出血で倒れ、車椅子生活を余儀なくされる。公職追放が解除された。
1952年、自由党に復帰するが、吉田と角遂。
1954年、日本民主党を結党。第5次吉田内閣が総辞職し、第1次鳩山内閣が発足。
1955年、解散総選挙で民主党は第一党となるが過半数は制せず。第2次鳩山一郎内閣発足。日本民主党・自由党が合流し(保守合同)、自由民主党となり、第3次鳩山一郎内閣発足。
1956年、自民党初代総裁に就任。日ソ共同宣言を批准(日ソ国交回復)後、内閣総辞職。政界引退を表明する。
1959年、狭心症のため死去。没後、大勲位菊花大綬章が受勲された。