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池田勇人

いけだはやと

池田勇人は、日本の官僚および政治家。内閣総理大臣として経済大国への舵取りを担った。
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この人物は( 明治32年12月3日~昭和40年8月13日 )は、第58・59・60代内閣総理大臣。正二位大勲位。

概要

 明治32年、広島県吉名村( 現竹原市 )の酒造業を営む家に生まれた。
 旧制中学校を卒業後、第一高等学校( 旧制の高等学校現代の大学前期に当たる、なおこの学校は東京大学および千葉大学の一部が後身である )を受験したが失敗し、翌年第五高等学校( 熊本大学の前身のひとつ )に行くことになった。このとき同時に入学したのが池田の盟友であり終生のライバルとなった佐藤栄作も同じように一高に落ち、五高に進んだ。

官僚時代

 池田はその後、京都帝大を卒業、国のお金のことを扱う大蔵省に入省した( ちなみに佐藤は東京帝国大学卒業後紆余曲折を経て鉄道省に入省 )。
 それまでの経歴上出世ルートからは外れた税務畑にいたが宇都宮税務署長に赴任した際、自己免疫疾患のひとつであると考えられる落葉状天疱瘡が池田を襲った。この病気は当時は不治の病と言われる難病で、妻の直子( この人自身は明治維新の元勲広沢真臣の息子の娘に当たる )はこの時の看病疲れで亡くなり、池田自身も大蔵省を退職することとなった。
 しかし池田は遠縁の娘・大貫満枝の献身的な看病もあり、5年間の闘病生活を経て遂に回復し、満枝は後に池田の妻となった。
 一度は大蔵省への復帰を諦め、民間企業に入ろうとしていた池田だが、同僚や上司の勧めによって復職、地方回りをしたのち本省主税局に入るも、出世が遅いため満州にわたることを考えていた。昭和20年、主税局長となった。主税局長就任の半年後に、日本は敗戦を迎えるが、この敗戦が池田の運命を大きく回転させることになる。
 それまでの経歴や病気により遅れて開始したキャリアのおかげで、多くの同僚や先輩を襲った公職追放の網にかからず、一躍、石橋湛山蔵相のもとで大蔵次官になるというチャンスをつかんだからである( 一方佐藤は上司や軍との折り合いが悪く活躍できなかったがそのためとは異なり公職追放の対象にはならなかった )。
 その後、片山哲社会党内閣が成立すると、実務に疎い閣僚に代わって各省次官の次官会議が実務を運営し、池田はその中で頭角を現すと同時に、政治家転身を真剣に考えるようになった。

政治家への道

 昭和23年に大蔵省を退官し、出馬の準備を固め始めていた池田は、翌昭和24年の総選挙で広島二区から初当選し、一年生議員にして大蔵省のトップである大蔵大臣に大抜擢された。
当然党内の反対が渦を巻いたが、吉田茂首相は「池田君は数字に明るいからね」と言って、これを押し切ってしまった( 実際のところアメリカ合衆国からの経済のすり合わせがあり、税制に詳しい人物を必要としていたが著名な人物は公職追放されていたためである )。
 池田蔵相の初仕事は、GHQから派遣された銀行家ジョセフ・ドッジと共に超均衡予算を組み、経済の自立を促すための超緊縮政策「ドッジ・ライン」を実施することであった。その結果、戦後の悪性インフレ自体は収束したものの、逆にデフレとなり中小企業を中心に倒産が続出した。
 この件に関してアメリカに特使として貿易庁長官でありGHQなどとも顔が利いた白洲次郎、秘書官であった宮澤喜一らとともにわたりドッジラインの緩和や国際通貨基金の加入に関すること、さらに日米安保条約に関することなどを直接交渉している。
 大臣就任後二年半以上後、度重なる舌禍( 具体例を挙げると「貧乏人は麦を食え」、「中小企業の一部倒産もやむを得ない」など )により野党三派が上程した池田大蔵相および途中から兼任した通産省大臣の不信任決議案が可決され、池田は辞任したが、国務大臣の不信任決議案通過はこれが戦後初めてのケースであり、現代まで内閣派別として国務大臣の不信任決議案の通過はない。
 昭和28年に「バカヤロー解散」( 首相であった吉田が社会党右派の西村栄一に対しバカヤローと小声で発言、それをマイクが拾ったことにより話が大きくなり、自由党の非主流派がそれにのり内閣不信任案まで可決させ、結果解散となった )の後に成立した第五次吉田内閣はすでに国民の支持を失い、吉田を支える側近は池田勇人と佐藤栄作のみになった。
 池田は昭和29年7月に自由党幹事長となり、10月には首相特使として訪米、ロバートソン国務次官補と防衛経済援助について会談を行ったが、11月に反吉田の日本民主党が鳩山一郎を党首として結成され、12月にはついに吉田内閣が総辞職、鳩山内閣が成立した。
 池田は昭和30年11月の自由民主党結党に参加、鳩山後継の総裁選では石橋湛山を推し、蔵相として入閣、同内閣を継承した第一次岸信介内閣でも蔵相を担当した。
 昭和32年7月の内閣改造で一度は内閣を離れるが、総選挙後の昭和33年6月の第二次岸内閣では無任所の国務相として入閣。
 昭和34年12月、警察官職務執行法の予防拘禁が可能なように改正する問題で岸首相の責任を追及していた三木武夫経済企画庁長官や灘尾弘吉文部大臣らと共に辞任し、宏池会( 当初、池田派であり後に経済系議員の派閥となる )を結成した。昭和34年6月の内閣改造では田中角栄の説得もあり周囲の反対を押し切って通産相として入閣。日米安保条約改定をめぐっての苛烈な反対闘争の末に、改定安保条約が発効すると岸内閣は混乱の責任を取って総辞職した。

内閣総理大臣

 昭和35年7月、岸信介の辞任に伴い自由民主党総裁選挙により、池田が総裁( これは同時に総理大臣になるということである )となる。内閣総理大臣就任の記者会見で「『乏しきを憂えず、等しからざるを憂う』という言葉があるが、私は『乏しきをも憂う、等しからざるをもまた憂う』」と述べ、それまで個人的に主張してきた「所得倍増計画」の信念を披瀝した。
 昭和35年10月には浅沼稲次郎社会党委員長刺殺事件( 戦前からの国会議員であったが翼賛選挙に立候補しなかったため公職追放から免れ、日本社会党の書記長となる。社民党分裂後委員長となった浅沼稲次郎が演説右翼少年刺殺された )が発生したが池田首相は心からの弔意を表して暴力の一掃を訴えた。これにより日本社会党はこの件を政治闘争の具として使用できなくなり、国民からの支持も得たとされる。
 更に11月の総選挙では300議席という数を確保し、池田の人柄や政治姿勢もさることながら、その所得倍増政策が国民の多くの支持を得、そのため、「55年体制」下で一度も支持率が不支持率を下回らなかった唯一の内閣といわれることとなる。
 また日本の国民の平均的生活水準が「中流」レベルに達したのが、池田時代であったといってよいであろう。しかし政権末期ともなると、高度成長の歪みが少しずつ国民の間にも認識されていくようになった。
 池田政権時代の高度成長の到達点を示すのが、昭和39年、カラー放送で全世界に中継された東京オリンピックであり、最後の課題の一つも、オリンピックを成功させることであり、池田はこのオリンピックに夫人と共に出席した。
しかし、その時すでに池田の身体はに冒され、池田も再起不能であることは覚悟していたようである。
 そして東京オリンピックのフィナーレと共に、池田は首相辞任を表明した。
 その後の日本にとって残された課題は、高度成長から取り残された農林水産業の近代化、中小企業の振興、高度福祉社会の建設であったが、それらは後継者に託さざるを得なかった。

そのほか

 また池田内閣期の昭和35年に、三重県出身であり後に皇學館大学理事長となる浜地文平代議士が質問状を提出した。
 内容は伊勢神宮は占領下にあって民間の一宗教法人として存続することを余儀なくされていたが、そのご神体である八咫鏡の所有権やその扱いに関する疑念を晴らすための質問であった。それに対して池田首相は正式な答弁書の中で、伊勢の神宮に奉祀されている神鏡は、皇祖皇孫にお授けになった八咫鏡である、それは、代々皇室が受け継いで、ある時期から、それを神宮が預かっているので、その扱いについては、これまでも皇室に相談してきたし、これからも、そうすべきものと考えている、という意味の政論を回答した。

関連タグ

昭和時代の内閣総理大臣
海賊とよばれた男百田尚樹小説。作中に実名で登場。
疾風の勇人…池田を主人公にした『ムダヅモ無き改革』の大和田秀樹による日本の歴史漫画。2016年から『週刊モーニング』にて連載中。

参照

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