この人物は戦前は官僚であり、後に政治家となり、内閣総理大臣まであった人物であり、昭和の妖怪とまで呼ばれることのある人物である。
この人物たちが築きあげた統制経済の仕組みが、現在の官僚国家・日本の原型へ連なっている点では罪深い。
経歴
この人物は佐藤家の次男として生まれた。中学時代、婿養子であった父の実家の養子となる。本人は旧制一高から東京帝国大学へ進んだ典型的な超秀才であり、卒業後二流省庁と思われていた農商務省に入省、農商務省が商工省と農林省似分割されると商工省に分類される。この人物は事実上のトップである商工大臣よりも幅を利かせた優秀な経済官僚として名をはせ、また統制経済( 経済の資源配分を国家の物財バランスに基づいた計画により配分する形式。計画経済とも。 )を推し進めた「革新官僚( 革新主義政策をめざし、または実行した官僚たちであり、彼らはソ連式の計画経済を推し進めようとしたが、一部は財界および右翼政治家からとめられたとされる )」と呼ばれるエリートの中心人物であった。
一例としては支那事変開始直後の大日本帝国はまったくといっていいほど戦争の準備をしておらず、零戦を一万機も一気につくる国力は日本になかった。それが可能になったのは彼ら新官僚による統制経済の力でありそうでなければ零戦一万機をつくる手配はできなかっただろうといわれる。ただしその他の面が抑制されたため、日本は統制経済でボロボロになった。
その後岸は経済官僚として満洲経営に参画し「弐キ参スケ」( 後述 )と呼ばれるほどの腕を振るった。その際財界とのコネクションを得る。その満洲国は建国後わずか10年間で当時のアジアの中ではかなり安定した発展を遂げ、この地域はその後の中華人民共和国の足がかりともなったといわれる。
昭和16年、東條英機内閣が発足する際に、能力を買われた岸は商工大臣に就任した。この内閣の下で対米開戦し、第二次世界大戦が始まった。一方大臣になったものの組織改造により岸は軍需省の次官兼国務大臣に格下げされ、それもあってかサイパン陥落の時に「物資補給の面から考えて、もはや戦争を続けても勝てない」と判断し、「日本に物資が入ってこない以上、戦争はできない」と経済官僚としてはっきり主張し、結果的に東條内閣を倒す役割を果たした。
大日本帝国憲法においては反旗を翻した大臣を馘首にするには一度内閣総辞職するより方法がなかったものの、すでに倒閣運動が重臣( 天皇周辺の人物 )および海軍の一部で発生していたため東條内閣の場合は再組閣できるような雰囲気ではなかったのである。
戦後
東亜大戦後、東條内閣の閣僚であった岸はA級戦犯に指名された。
実質党が戦争をした第三帝国やイタリアなどと異なり、日本は国をあげて戦争を行ったが、その敵であるアメリカから指名されたということは一級の人物であったということであり、岸がそれだけの大物であった証明であるといえるだろう。
ところが倒閣運動後反東條の動きを見せていたことや戦う気満々だった岸は極東国際軍事裁判( 東京裁判 )で起訴されることはなかった。
巣鴨プリズン( 極東国際軍事裁判のため東京拘置所施設を利用した戦争犯罪人の収容施設、現在はサンシャインシティが建設されている )を出たものの、公職追放は解除されていなかった。そこでコネを使い会社の仕事を請けていた。
昭和27年に公職追放が解消されると、政界進出をもくろみ、当初日本再建連盟の会長となるも第25回衆議院議員総選挙で一人しか当選者を出せず解散、なぜか日本社会党に入党しようとするも政党側から拒否された。そこで吉田茂の指揮する自由党に合流するも、吉田の方針に逆らい党を除名される。自由党から分裂し、鳩山一郎の指揮する日本民主党結成に携わる。その後保守合同により自由民主党となる( なお同じころに左右に分裂していた日本社会党もひとつの政党に合同する )。
総理大臣
昭和31年、自民党総裁選に出馬するも石橋湛山に敗れたものの、外務大臣となる。ところがその2ヵ月後、石橋が脳梗塞により執務不能となり、内閣総理大臣臨時代理を勤める。その後閣僚をすべて引き継ぐ形で内閣総理大臣に就任し、外務大臣を内閣改造まで兼任した。
戦後の政界へ、戦前に官僚出身とはいえ大臣を務めた経歴がある岸が復帰したことは、子犬の群れに狼が戻ってきたようなものであった。
首相としての仕事
首相としては「反共」「アジア中心外交」「経済振興および貧民保護」「憲法改正」を軸に動いていたとされる。
岸首相は移動大使というものを発明して、外交官出身の大使ではなく経済界の大物を大使という資格でヨーロッパを回らせて、日本のウエイトを上げていった。
また岸首相は打つ手打つ手が決まっており、たとえば当時は世界中がつくらなかった大型タンカーなどの船種をつくるようにもっていくなどして、全部自前の技術と生産力である日本の造船の発展を導き、造船量は世界一に復帰した。
さらに、自民党の党是として憲法改正に言及し、その上に安保改定も成立させ、それ以降、日本は岸の定めた外交関係の枠のなかで復興を遂げた。
安保
昭和35年に沸き上がった安保騒動では、空前絶後の大規模なデモが連日のように続き、あらゆる階級の人がデモに押しかけた観があった。
なぜこの騒ぎが発生したかというと複数理由があり、それまでの日米安保はあまりに不平等な条約であったこと、昭和35年の日本では左翼の力が強く、アメリカの手先となるようなこの条約に反対するのは当然のことであったことがあげられる。
しかしこれらは大きな要素ではあるが、あれほど異常な騒動になったのはマスコミによる国民の煽動とそれによる流行病であったことが大きく、実際法案が通ったら国民も憑き物が落ちたようになって世情は落ち着いていった。
岸首相も「新聞は国民すべてが安保改正に反対しているような書き方をする。だが、野球場は満員じゃないか。反対しているのは共産主義に煽られた一部の人間にすぎない」と野球中継を見て、語っていたという。
この時、岸首相は首相官邸をデモ隊が取り囲んだ際、「どこかに避難しますか」という周囲の声を「首相が官邸で死なないで、一体どこで死ねというのだ」と一蹴して官邸に残り、最後まで避難せず残っていたのは彼と弟の佐藤栄作と二人だけだったという。
その後
日米安保は自然成立したものの、混乱の責任を取る形で辞職。そのすぐ後、岸は右翼の暴漢に刺された( この件は政治家としての行動と安保の被害者のあだ討ちの側面が存在する )。実力に反比例するように、実際のところ岸は国民に人気がなかった。
岸は命を張って生きてきた人で、精神力が強く、いまの政治家では考えられないほど腹が据わり、豪気さを持った、勇気のある政治家であった。
そのほか
第二次世界大戦は「デモクラシー対ファシズムだ」といわれるが、これは明らかにアメリカ合衆国等が用いた戦時プロパガンダに過ぎず、ある一面においては「自給自足国家 対 非自給自足国家の対立」という見方が成立するといわれ自給自足国家であるかどうかが大問題であった戦前の時代に、非自給自足国家である日本の経済官僚がとるべき道はなにかといえば、一つは満洲の開発であり、もうひとつは海外協調の道であったが、日本国内の体制としては、やはり統制経済的な政策でなければやっていけないという見方も成り立つ。
弐キ参スケ
東條英機( 関東軍参謀長を歴任 )、星野直樹( 大蔵省官僚を経て行政のトップである国務院総務長官、帰国後内閣直属の物資動員・重要政策の企画立案機関である企画院総裁を歴任、戦後A級戦犯となり服役後は会社の取締役など )、鮎川義介( 鉄鋼業の経営を経て日立や日産自動車の元である日産コンツェルン創始者、満州重工業開発総裁、戦後はA級戦犯の候補となるも起訴されず、公職追放解除後参議院議員など )、松岡洋右( 外交官、南満州鉄道副総裁、衆議院議員、満鉄総裁、外務大臣、戦後はA級戦犯に指定されるも裁判中に死亡。なお岸の実の叔父、母親の兄に当たる )と満州国に関連する人物である。
政治と金と人
この人物は「政治資金は濾過機を通ったきれいなものを受け取らなければいけない。問題が起こったときは、その濾過機が事件となるのであって、受け取った政治家はきれいな水を飲んでいるのだから関わり合いにならない。政治資金で汚職問題を起こすのは濾過が不十分だからです」という言葉を残している。実際に政治資金に関して疑惑は存在したものの大きな問題になることはなかったといわれる。
また、国際勝共連合( 世界基督教統一神霊協会教祖の文鮮明が設立した反共団体 )と関係が深かった。その関係からか蒋介石と仲がよかったとされる。