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満州国

まんしゅうこく

満州(満洲、内満洲)及び南モンゴル(内蒙古)の一部を領土とした帝政国家。国号正式表記は「大満洲國」。
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概要編集

満州国とは、現在の中華人民共和国(以下中国)遼寧省・吉林省・黒竜江省(東北三省または内満洲)、そして現内蒙古自治区(南モンゴル)北東部を領土とした国家。

首都新京(現・長春)。


清朝最後の皇帝であり、「ラストエンペラー」として知られる

愛新覚羅溥儀が、最初で最後の皇帝を務めた国でもある。


中国から見れば、表向きは中華民国から独立した独立国であったが、実際には関東軍の謀略により作られた国で、日本傀儡国家であった。現在の中国では、このことを強調する意味で「*偽満洲国」と呼ばれる。


満洲固有の民族(満洲族とモンゴル族)は、満州国成立当時には既に少数派であり、清代以降に入植して来た漢民族が多数を占めていたが、これに日本人(当時の呼称では内地人)と朝鮮人を加えた五民族の自治による「五族協和」を建前とした。しかし、満州国においては最後まで国籍法が制定されなかったため、法的な意味においては満州国民は存在しなかった。独立国(少なくとも近代における国家)は領土と国民、政府が揃って初めて存在するものだが、満州国は、最後まで国民が誰なのか不明、という奇妙な「国家」であった。


主要五民族の他、白系ロシア人やユダヤ人も大勢居住していた。中国語官話方言が「満州語」と呼ばれ、モンゴル語日本語ロシア語と並んで公用語とされていた(満洲族言語である「固有満州語」は公用語とされなかった)。


大量の移民を受け入れることが前提として、移民国家として成功したアメリカ合衆国をモデルにアジア初の多民族国家を建設するというのが公式の見解であったが、共和制は採用されずに皇帝を国家元首とする立憲君主制が採用され、どちらかというと日本と似た政治体制が建設された。

国家元首には満州を故郷とする満州族の首長である愛新覚羅溥儀が奉戴されることで、独立国家としての正当化が図られた。

また、五族協和というスローガンが掲げられたものの、実際は日本人を頂点として諸民族は様々な面で抑圧に晒された国家であった。満州族や漢族は本国で行われた土地改革の結果没落して移住してきた朝鮮人との対立だけではなく、所有していた土地を安く買い上げる、または暴力的に収奪して日本人開拓民に与えられ、一部の現地農民は彼らの小作人として働くことを強いられた。

こうした民族間の格差や対立構造が、満州国崩壊後に引き揚げてゆく日本人に襲い掛かる悲劇の遠因となってゆく。


pixiv内では主に皇帝・溥儀に関する絵につけられている。


満州国


国家体制編集

憲法は制定されず、大日本帝国憲法をベースとした組織法(統治機構を定めたもの)や人権保障法、皇室典範をベースとした帝位継承法などが事実上の憲法の体を成していた。


  • 皇帝(康徳帝・溥儀)

大満州帝国統治者にして、皇帝大権総攬者。

直属機関として尚書府・宮内府・祭祀府、侍従武官処・軍事諮議院などが置かれた。


  • 立法院

一院制議会として設置されたものの、1度も選挙が行われず開院することがなかった。政党自体も結社禁止であったため、官民一体の満州協和会が唯一の政治結社であった。


  • 国務院

国務総理大臣と各部大臣で構成。諸外国の内閣に相当。大満州帝国事実上の最高機関であったが、多くの要職は関東軍から送られて来た日本人が就いていた。


  • 総務庁

国務院補佐機関として設置されていたが、各部調整のみならず、予算・人事決定まで行い国政中枢を担った。幹部級職員は日本人が就き、満州国政治に関与していた(岸信介は総務庁次長を務めていた)。


  • 参議府

皇帝の諮問機関。諸外国の枢密院に相当。議会が開会されなかった同国において、唯一の立法機関としても機能していた。


  • 法院

大満州帝国における裁判所併置を採っていた当時の日本とは異なり、検事局が裁判所から独立していた。


  • 軍隊

大満州帝国軍は皇帝統帥することとなっていたが、事実上関東軍指揮が入っていた。旧日本軍とは異なり空軍が独立していた(飛行隊)。また、禁衛隊と呼ばれる護衛部隊も存在していた。


  • 交通行政

国鉄も存在したが、その運営は南満州鉄道委託されていた。

奉天市が地下鉄建設を企図し、大阪市電気局に依頼して計画を立案したが、戦争で中止されている東京ではなく大阪に委託したのは、大阪市がしたように都市計画と一体で地下鉄網を構築するためであったといわれている。

結果的に現在の瀋陽地下鉄線は、この時の計画線を一部なぞる形で建設されている。


国歌編集


満州国国歌(大満州帝国国歌)


歌詞編集

満語(中国語)
天地內有了新滿洲天地の中に新満洲あり
新滿洲便是新天地新満洲は即ち新天地である
頂天立地無苦無憂天を戴き地に立ちて、苦しみも憂いもない
造成我國家ここに我が国家を立つ
只有親愛並無怨仇ただ親愛の心があるのみで、怨みは少しもない
人民三千萬人民三千萬人民は3千万あり人民は3千万あり
縱加十倍也得自由もし10倍に増えても、自由を得るであろう
重仁義尚禮讓仁義を重んじ、礼儀を貴びて
使我身修我が身を修養しよう
家已齊國已治家庭は既に整い、国家も既に治まった
此外何求他に何を求めることがあろうか
近之則與世界同化近くにあっては、世界と同化し
遠之則與天地同流遠くにあっては、天地と同流しよう

歴史編集

満州(現・中国東北地区及び内モンゴル自治区北東部)は、

歴史上、概ね女真族(後に満州族と改称)の支配区域であった。

満洲国建国以前に、女真族が建てた王朝として、金や後金(後の清朝)がある。

清朝滅亡(1912年)後は中華民国の領土となったが、政情は安定せず、事実上、軍閥支配下に置かれた。

昭和6年、柳条湖事件に端を発した満洲事変満州事変)が勃発、関東軍(大日本帝国陸軍)により満洲全土が占領された。

関東軍主導の下、同地域は中華民国から離脱。

昭和7年、満洲国建国に至る。

元首(執政、後に皇帝)には清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀が就いた。


満洲国は建国にあたって、自らを満州民族と漢民族、モンゴル民族からなる「満洲人、満人」による民族自決の原則に基づく国民国家であるとし、建国理念として日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による「五族協和」を掲げた。


満洲国は建国に寄与した関東軍及び日本国の強い影響下にあり、日本国と不可分的関係を有する独立国家」と位置付けられていた。


当時の国際連盟加盟国の多くもまた満洲の地を狙っていたため、「満洲地域は中華民国の主権下にあるべき」とする、中華民国の立場を支持して、日本政府を非難。

昭和8年に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となる。


しかし、ドイツイタリアタイ王国など、多くの日本の同盟国や友好国が満州国を承認し、国境紛争をしばしば引き起こしていたソビエト連邦も領土不可侵を約束するにいたり、当時の独立国の3分の1以上と国交を結んで、安定した状態に置かれた。


だが、太平洋戦争末期の昭和20年8月9日、ソ連軍の侵攻を受け、次いで8月15日の日本降伏により崩壊。

満洲地域はソビエト連邦の支配下に置かれ、次いで中華民国の国民政府に返還された。

更にその後、国共内戦における国民政府の敗北により、現在は中華人民共和国の領土となっている。


現在この地域を統治している中華人民共和国は、同地域について「満洲」という呼称を避け、「東北」と呼称している。

日本においては通常、公の場では「中国東北部」、または注釈として「旧満州」という修飾と共に呼称する。


前史編集

 日本満洲に対する関心は、江戸時代後期に既に現れていた。


経世家の佐藤信淵は、文政6年(西暦1823年)に著した『混同秘策』で、「凡そ他邦を経略するの法は、弱くして取り易き処より始るを道とす。今に当て世界万国の中に於て、皇国よりして攻取り易き土地は、支那国の満洲より取り易きはなし」と、満洲領有を説いた。


また、幕末の尊皇攘夷家、吉田松陰は『幽囚録』にて、「北は満洲の地を割き、南は台湾、呂宋諸島を収め、進取の勢を漸示すべし」と、似た主張をしている。


現在編集

満洲国の消滅後は、満州族も数ある周辺少数民族のひとつと位置付けられ、「満洲」という言葉自体が中華民国中華人民共和国両国内で排除されている(「満洲族」を「満族」と呼ぶ、清朝の「満洲八旗」は「満清八旗」と呼びかえるなど)。

今日、満洲国の残像は、歴史資料や文学、一部の残存建築物などの中にのみ存在する。


ただし、中華人民共和国による満州の領有と支配を認めない人たちで構成された、満州国臨時政府は存在する。主な活動の拠点は上海、香港、台湾、それと日本。

建国記念日である9月28日には満州国旗を掲げて行進が行われ、建国に尽力した日本軍人に礼をするため靖国神社に参拝する

彼らの主張によると、満州国は23の独立主権国家によって承認された正当な国家だそうである。

その中に日本とドイツ第三帝国が含まれているのは当然だが、逆に強国が植民地支配をするのが当然だった時代、この2国は満州国成立当時は世界を動かせるほどの有力国家でもあった。

ちなみにこの23か国中、正式に満州国の承認を撤回した国家は皆無である(国体を維持したまま降伏したイタリア・降伏に近い形で連合国と和平したタイフィンランドを含む)。

でも台湾政府って満州の領有権主張してるんだけどいいのかな。


日本の影響力編集

 当時複数の国が満洲国を国家として承認していたものの、日本の敗戦とそれに続く極東国際軍事裁判を経て、満洲国は日本の軍事行動により建国され、建国後の国家体制も日本の強い影響下にあったことから、満洲帝国は大日本帝国の傀儡国家であるとする認識が、現在においては一般的である。

実際公務員の約半分が日本人で、高官になるほどその比率が高くなるというありさまだったが、決してほかの民族が高官になる例は少ないが皆無ではなかった。そのため日本人が圧倒的優位に立つ植民国家とされる一方で、五族協和の建前がある程度は効力を発揮していたという評価もある。

 また、満洲人が満洲人として振舞えた最後の時代でもあった。



中華民国及び中華人民共和国は、現代でも満洲国を歴史的な独立国として見なさない立場から、否定的文脈を用いて「偽満」「偽満州国」と表記する。


国名編集

大同元年(1932年)3月1日の満洲国佈告により、国号は「滿洲國」と定められている。


日本では太平洋戦争後、当用漢字字体表(昭和24年4月28日内閣告示)に従い「満洲国」と表記されるが、「洲」が当用漢字表(昭和21年11月16日内閣告示)に含まれていないため、文部科学省検定済教科書など教育用図書では同音の漢字による書きかえに基づき、音が同じで字体の似た「州」に書き換え「満州国」と表記する。


この国号は、康徳元年(1934年)3月1日、溥儀が皇帝として即位しても変更されなかった。

ただし、同日施行された組織法第1条に「満洲帝国ハ皇帝之ヲ統治ス」(「政府公報日訳」による)とあるのをはじめとして、法令や公文書では「満洲国」と「満洲帝国」が併用されるようになった。


康徳元年(1934年)4月6日の外交部佈告第5号により、帝政実施後の英称は正称が「Manchoutikuo」または「The Empire of Manchou」、略称が「Manchoukuo」または 「The Manchou Empire」と定められている。


満州の語源として、後金時代に「五行思想」に基づき、火である明王朝を継承する、水王朝である清王朝を構成する民族名として、女真、蒙古、漢族の統合の象徴として「さんずい」で構成される「満洲」が選ばれた経緯もあり、少なくとも、文化的に満州を使用する場合は、「満洲」と記載されるべきとする立場もある。


満州国の元号編集

大同【ダードン・だいどう】(1932年3月1日-1934年2月28日)

康徳【カントー・こうとく】(1934年3月1日-1945年8月18日)


関連タグ編集

地域:満州/満洲

国家:満州国軍/満洲国/偽満州国

皇室:愛新覚羅/満州国皇帝

企業:南満州鉄道/満鉄

事変:満洲事変満州事変


関連国(近代以前):(明.または大明)/(清朝)

関連国(近代以後):日本(大日本帝国)/中華民国/中華人民共和国/ソビエト連邦

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