概要
- 日本の中国からの租借地であった関東州(遼東半島)守備及び南満州鉄道附属地警備を目的とした関東都督府守備隊が前身。司令部は当初旅順に置かれたが、満州事変後は満洲国首都である新京(現・吉林省長春)に移転。「関東軍」の名称は警備地・関東州に由来する。
- 張作霖爆殺事件や満州事変を独断実行したことは、西暦1920年代からの国家外交安全保障戦略を現地の佐官級参謀陣が自らの判断で武力転換させたことを意味し、その後の太平洋戦争(大東亜戦争)に至る日本の政治外交過程を大きく左右する契機となった。
独断専行・暴走
なお、これら一連の行動は参謀本部・旧陸軍省といった当時の旧陸軍中央(省部)の国防政策からも逸脱しており、明確な軍規違反であり、大元帥・昭和天皇の許可なしに越境で軍事行動するのは死刑とされる程の重罪であったが処罰されるどころか逆に首謀者は出世した。
当時の世論はこれを熱狂的に支持し、収拾が付かなくなっていた。
もっとも、この事件の首謀者である人物は後の事変拡大や、対米開戦には真っ向から反対しており、満州事変を大日本帝国崩壊の元凶とする主張は所詮、結果論に過ぎないとも指摘されている。
歴史
- 日露戦争後にロシア帝国から獲得した租借地、関東州と南満洲鉄道(満鉄)付属地守備をしていた関東都督府陸軍部が前身。大正8年に関東都督府が関東庁に改組されると同時に、台湾軍・朝鮮軍・支那駐屯軍などと同じ軍たる関東軍として独立した。当初の編制は独立守備隊6個大隊を隷属し、また日本内地から2年交代で派遣される駐剳1個師団(隷下でなくあくまで指揮下)のみである小規模な軍であった。
- 昭和3年には、北伐による余波が満州に及ぶことを恐れた関東軍高級参謀・河本大作歩兵大佐らが張作霖爆殺事件を起こす。しかし、張作霖の跡を継いだ息子張学良は、国民政府への帰属を表明し工作は裏目となった。
- 昭和6年、石原莞爾作戦課長らは柳条湖事件を起こして張学良の勢力を満州から駆逐し、翌7年、満州国を建国。当初、犬養毅首相は満州国承認を渋るが旧海軍青年士官らによる五・一五事件の凶弾に倒れ、次の斎藤実内閣は日満議定書を締結し満州国を承認する。その後、関東軍司令官は駐満大使を兼任すると共に、関東軍は満州国軍と共に満州国防衛の任に当たり、一連の満蒙国境紛争に当たっては多数の犠牲を払いながら、満州国が主張する国境線を守備する。関東軍司令部は、昭和9年に満州国首都新京市(日本敗戦後、旧名の長春に戻る)に移った。
- 一方で、1917年のロシア革命とその後の混乱により弱体化していた旧ソ連は、1930年代中盤頃までに第1次及び第2次5ヶ年計画を経て急速にその国力を回復させていた。当初日本側は、旧ソ連軍の実力を過小評価していたが、旧ソ連は日本を脅威と見なして着実に赤軍極東軍管区増強を続けていた。昭和13年の張鼓峰事件で朝鮮軍隷下の第19師団が初めて旧ソ連軍と交戦し、その実力は侮り難いことを知る。さらに昭和14年のノモンハン事件では、関東軍自身が交戦するが大きな損害を被り日本陸軍内では北進論が弱まる契機となった。
- 戦後がある時期まで張鼓峰事件・ノモンハン事件は旧陸軍の一方的敗北であったと考えられていたが旧ソ連崩壊により明らかとなった文書によると、両戦闘における旧ソ連側の損害は実は日本側を上回っていた事実が判明。これにより特にノモンハン事件に関しては現在再評価が進んでいるが、北進の意図を挫くという旧ソ連側の目的は事実上達せられており、戦略的には旧ソ連勝利となる。
- これらの武力衝突により旧ソ連軍の脅威が認識されたことや第2次世界大戦の欧州戦線の推移などにより関東軍は漸次増強され、昭和11年には、関東軍の編制は4個師団及び独立守備隊5個大隊となっていた。そして、翌昭和12年の日支事変勃発後は、続々と中国本土に兵力を投入し、昭和16年には14個師団にまで増強された。加えて日本陸軍は同年勃発した独ソ戦にあわせて関東軍特種演習(関特演)と称した準戦時動員を行った結果、同年から一時的に関東軍は兵力74万人以上に達した。「精強百万関東軍」「無敵関東軍」などと謳われたていたのはこの時期である。なお、同年4月には日本と旧ソ連との間で日ソ中立条約が締結されている。
- 昭和17年10月1日には部隊編制が従来の軍から総軍へと昇格。関東軍は支那派遣軍や南方軍と同列となり、司令部(関東軍司令部)は総司令部(関東軍総司令部)、従来の司令官は総司令官、参謀長は総参謀長、参謀副長は総参謀副長へと改編された。
- 太平洋戦争戦況が悪化した昭和18年以降、重点は東南アジア(南方方面)に移り関東軍は戦力を抽出・転用され、また日ソ中立条約により旧ソ連軍との戦闘がなかったため関東軍も進んで戦力を提供した。その埋合わせに昭和20年になると在留邦人を対象にいわゆる「根こそぎ動員」(25万人)を行い、数の上では78万人に達したが、その練度・装備・士気などあらゆる点で関特演期より遥かに劣っており、満州防衛に必要な戦力量には至っていなかった。
- 同年8月9日、旧ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し対日参戦。満州に侵攻して来た旧ソ連軍に対し関東軍は国境で陣地防御を行い、戦況悪化に従って防衛線を段階的に大連 - 新京 - 図們の三角線まで南下させる守勢後退を行った。この作戦によって関東軍は「開拓殖民を見捨て逃げ出した」と非難されることとなった。一方で大連 - 新京防衛ライン(満鉄連京線を指す)では、後方予備として温存していた9個師団を基幹とする第3方面軍が展開して実際に持久戦が企図されていたが、反撃に移るまでに8月15日の玉音放送を迎えた。正式に降伏と停戦命令が満州関東軍総司令部に伝えられたのは翌16日夕方であった。
- 「徹底抗戦」を主張する参謀もいたが、山田乙三総司令官は夜10時に停戦を決定、関東軍諸部隊は逐次戦闘を停止した。ただし、一部前線部隊には停戦命令が到達せず、8月末まで戦闘行動を継続した部隊もあった。
- 停戦後、関東軍将兵の多くは、旧ソ連軍捕虜としてシベリアに抑留され、過酷な強制労働に従事させられ、多数の死者を出すこととなる。総司令官・山田乙三大将や参謀・瀬島龍三中佐ら関東軍幹部は11年間の長期に渡って抑留される。
- 近衛文麿公爵の嫡男で近衛家当主・文隆中尉はシベリア抑留中に獄死したため、当主不在となった近衛家は文麿の外孫・忠煇氏が継ぐこととなる。
- 八路軍捕虜となった林弥一郎少佐の第4練成飛行隊は、東北民主連軍航空学校を設立し中国人民解放軍空軍の基礎を築いた。
関東軍が関係した戦闘・事件等
- 張作霖爆殺事件(昭和3年):要人暗殺事件
- 満洲事変(昭和6年):満鉄付属地外出兵
- ノモンハン事件(昭和14年):満蒙国境紛争
- 太平洋戦争末期のソ連軍侵攻(昭和20年):日ソ中立条約違反の旧ソ連軍侵攻に対する防衛戦闘
- 東安駅事件:撤退に当たって弾薬を爆破処分。安全確認を疎かにしたため満州から引き揚げる民間人多数が巻き込まれ死傷。
関連動画
関連項目
自衛隊彼の地にて、斯く戦えり:「異世界関東軍」と評されることがある。