辻政信
つじまさのぶ
石原莞爾とともに大日本帝国陸軍を代表する奇人の一人で、人呼んで作戦の神様。
その型破りな行動から、生前は各方面からの非難と脚光を同時に浴び、死後も毀誉褒貶が絶えない人物である。その独断専行から陸軍上層部とのトラブルが絶えず、彼の働いた陰謀や戦争犯罪が後に外交問題を起こしたことも多い。
帝国陸軍にありがちな極度の精神論者であった。指揮系統を無視した独善的指導、無謀な死守命令、自決の強要などを行ったこともたびたびあり、陸軍軍政の悪しき部分を体現したような人物である。マレー作戦では「これだけ読めば戦は勝てる」という冊子を配ったが、「将校は西洋人で下士官は大部分土人であるから軍隊の上下の精神的団結は全く零だ」、「敵を呑んでかかる気持ちが大切である」という具合に米英軍を侮る内容に終始している。
ただ、他の参謀や司令官と全く違ったのは常に率先垂範を心がけ、部下たちと苦楽を共にし、自ら最前線に赴いて兵士たちを鼓舞したことである。それ故、その下で働いた部下からは非常に人気が高く、戦後も称賛や擁護が絶えなかった。
私生活は極めて品行方正で、真面目一本槍な軍人だった。同時代の他の陸軍の将校達とは対照的に、女遊びや芸者遊び、酒や贅沢にふけることを極度に憎み、赴任する先々で品行の悪い将兵を上下問わず叱りつける風紀委員活動が趣味であった(なお、石原莞爾などの同時期の他の「軍人としてはアレだが私生活は品行方正」な日本軍の佐官・将官にも言える事だが、単に酒が飲めなかったせいで、飲酒が伴なう遊興が嫌いだった可能性も考慮すべきであろう)。ノモンハンでは自ら負傷兵を運搬したり、現地人といさかいをおこした将兵の即処刑を主張したり、トラック諸島での海軍との会合で海軍将校の豪華な食事内容に「大和ホテルとはよく言ったものです。これではガ島でトカゲを食っている陸軍の苦しみは分かるまい」と毒舌を吐く等、多くの逸話を残した。
敗戦時には自決したと偽って逃亡。国民党政権に匿われて中国を転々とし、1950年の戦犯解除とともに逃走潜伏中の記録『潜行三千里』大戦中のことを書いた『十五対一』を発表して同年度のベストセラーとなり、最前線で戦ったエリートとして人気者となった。戦後は故郷である加賀市の発展に寄与し名士として銅像が建てられた。
しかし、勇敢といっても参謀として見れば無謀とも言え、彼の参加した多くの作戦でいたずらに損害を拡大させる原因となった。後述するようにマレーで作戦参謀でありながら、勝手に部隊の指揮を執った辻に対しての山下奉文の人物評では「この男、矢張り我意強く、小才に長じ、所謂こすき男にして、国家の大をなすに足らざる小人なり。使用上注意すべき男也」と小人物であることが強調されている。
衆議院・参議院議員時代には一時期、日本の完全な非武装中立平和を主張した。一方でCIAにおいて「あの男は機会があれば第三次世界大戦すら起こしかねない」と警戒されたことすらある。
市井の毀誉褒貶も激しく、国会議員に当選するほどの人気を得た一方で、作家の半藤一利などは実際に会った後「少なくとも牟田口は自分の責任を口にしていたが、辻は自分の責任を全く考えていない、絶対悪というものが存在するのならば、この男のようなものを言うのだろう」と述べている。
無謀な作戦と、戦争犯罪への関与で大変悪名高いが、戦犯追及からの逃避とはいえ連合国側の国民党の支配領域に逃走したことや、国民党がシンガポールでの、華僑粛清やフィリピンでの捕虜虐殺の首謀者の一人であったにもかかわらず、米軍に引き渡さなかった事実から、蒋介石の指示を受けた工作員か、協力者だったのではないかと指摘する識者も存在する。
1961年、参議院議員在職時代に東南アジア視察を目的としてベトナム方面に渡航、現地で消息を絶った。参議院の任期が切れる1965年をもって議員任期満了となり、1968年7月20日付で死亡宣告がなされた。その最後はパテト・ラオ(ラオスの共産主義革命組織)に処刑された、現地の残留日本兵に殺害された、中共に連行され監獄で果てた、イギリスが戦争犯罪の件で逮捕し損なったのでMI6を投入して暗殺された、果てはラオスに政権を樹立しようと企図したので第三次世界大戦を恐れたアメリカがCIAを投入し暗殺した…等諸説あるが、未だにはっきりしていない。
幼年学校、士官学校と陸軍大学校
辻は、勉強だけはやたらできた。名古屋陸軍地方幼年学校の入学時こそ補欠入学と振るわなかったが、卒業時は首席だった。その後、陸軍士官学校(陸士)(36期)を首席で卒業、陸軍大学校は3位の成績で卒業した。卒業後は、原隊復帰、第一次上海事変勃発に伴う上海出征を経た後、参謀本部で勤務した。
陸軍士官学校事件
1934年に、打診されたモスクワ駐在武官職(栄転)を断って陸士生徒隊中隊長を拝命。辻は演習で自ら生徒とともに泥まみれになるなど指導に力を入れたため生徒間での人気は非常に高かったという。
当時の士官学校は軍部による国家革新を目指す国家社会主義思想が広まっており、辻は得意技の内偵で得たクーデター計画の容疑者の粛清を断行した(辻自身がクーデター計画をでっちあげたという説もある)。しかしながら、そのようなクーデター計画が存在したこと自体を重く見た軍により30日の謹慎処分が辻に下された。その後水戸の歩兵第二連隊付に左遷された。
関東軍への転出
二・二六事件後の1936年に、満州の駐留部隊である関東軍の参謀部付となった。このとき石原莞爾と面会し、多大なインスパイアを受けた。以降、生涯にわたる石原崇拝が始まり、辻は石原のことを「導師」と呼び人生最大の尊敬を向けることになる。だが、中央の方針を無視しての行動等は真似ても、石原程の視野の広さには欠けており、満州事変を起こした石原が満州は列強の利権が無かったのに対し、中国には列強の利権がある事からその介入がある事を予測し、未だ日本は列強と戦える状況ではないとして中国との戦線不拡大を唱えたのに対して、1937年7月に盧溝橋事件が勃発すると、辻は戦線拡大を唱え、自らが爆撃機に乗って中国軍を爆撃すると主張したところ、作戦主任から「そんなことをすれば戦闘機でお前の飛行機を撃ち落としてやる」と脅され、断念した。その後は趣味の風紀委員活動に専念し、兵士や平民から「今様水戸黄門」と評された。ある日、辻は兵站宿舎に数時間まどろんでいたが、隣室の騒ぎがひどくて寝付かれなかった。土建屋が芸妓を揚げて騒いでいるようだった。辻は、酒池肉林の中に「戦争が起こったらまた金儲けができるぞ。軍人の馬鹿どもが儲かりもしないのに、生命を捨ておる。阿呆な奴じゃ」と聞いて激怒、いきなりその室に入って、何も言わず、数名の利権屋に鉄拳を見舞った。
ノモンハン事件
1939年5月にハルハ河東岸において、ソ連軍・モンゴル軍との小規模な衝突が発生した。辻は、積極攻勢を主張した。国境を越えた軍事進攻は、参謀本部、ひいては天皇陛下の裁可が必要となるが、辻は「いちいち中央の了解なんて取っているようでは、国境防衛なんてできん」として独断専行を訴え、これに押された関東軍はソ連軍の基地を中央に無断で爆撃した。これが「朕の了解なしに他国を爆撃するとは何事か」と昭和天皇の逆鱗に触れ、中央の参謀は天皇陛下から大いに叱責された。参謀本部は、辻の更迭により事態を収拾しようと考え、板垣陸軍大臣に相談するが、板垣陸相は「そんなこと言わずに辻君をかわいがってやりなさい」として応じなかった。
辻は自ら最前線に出て越権的な作戦指導を行った。日ソ両軍の戦力が拮抗していた時期には、日本軍はなかなか占領地域を拡大できなかったので、辻は大規模な攻勢計画を立案。そのなかのハルハ河の渡河作戦に辻は同行している。
戦闘では、渡河したばかりの日本軍歩兵にソ連軍戦車部隊が襲い掛かってきて、日本軍は防戦一方となってしまった。それでも日本軍は対戦車砲と火炎瓶で応戦し、100輌以上のソ連軍戦車・装甲車を撃破して何度も攻撃を撃退している。辻は最前線でこの戦闘を指揮していたが、損害に構わず何度も反復攻撃してくるソ連軍を見て、このままだったら歩兵部隊が全滅すると考えて、独断で撤退を命令し、歩兵全滅を防いでいる。
この戦闘中にある連隊長が、自分の連隊がソ連軍戦車に包囲されて孤立しているのに、自分は後方でビールを飲んでいるのを見た辻がその連隊長を一喝するということもあった。この連隊長はノモンハン事件後に予備役行きとなったが、辻を恨んで、太平洋戦争後に作家の司馬遼太郎と組んで、辻との間で舌戦を繰り広げている。
その後、辻は一旦ノモンハンを離れたが、ソ連軍が名将ゲオルギー・ジューコフを総司令官に据えて日本軍の数倍の戦力で反撃してくると、現地の第6軍のたっての願いで急遽ノモンハンに呼び戻されることになった。しかし前線に向かう途中で飛行機が墜落し、どうにか一命を取り留めるも敵中真っ只中に孤立するなど、満足に指揮をとる間もなく、日本軍は圧倒的なソ連軍の兵力と火力の前に、各拠点が個別に包囲され、奮戦むなしく壊滅してしまった。
辻は関東軍から3個師団を増援としてノモンハンに投入する反撃作戦を計画し、関東軍も了承したが、大本営は天皇の意向もあって戦争の拡大を望んでおらず、その後、日ソ間で停戦協定が成立し、日本軍は係争地域から撤退した。
壊滅した第6軍の荻洲立兵司令官や第23師団小松原道太郎師団長は、ソ連軍の包囲下で兵を救うために独断撤退した2名の連隊長を「敗戦の原因」として非難し、自決を強要しているが、辻もこの2名を非難している。
ノモンハン事件は当然敗北と陸軍からは受け止められたが、損害面だけに限ればソ連側の方が大きかったことが判明しているように辻も戦闘に手応えを感じていたようであり、また、彼の認識としては、戦闘の主導権をソ連軍に握られたのは、ジューコフが日本軍の数倍の戦力で大攻勢をかかてきた最終盤期だけであり、大本営が辻の要望通りの増援を出しておけば負けなかったはずとして「戦争は負けたと感じたものが、負けたのである」と締めくくった
ノモンハン事件後
事件終息後はさすがに左遷され、第11軍(漢口)司令部付、台湾軍司令部など閑職を転々とする。ノモンハンで煮え湯を飲まされた参謀本部などは、辻の免官を強く主張していたが、板垣陸相など陸軍上層部の有力者が辻の才能を惜しんだため、かろうじて現役に留まれていた。漢口では暇をもてあましたのか、高級将校らの夜の遊興、女関係などを洗いざらい調べまくって彼らを恐れさせるなど趣味の風紀委員活動に専念している。辻は、ある少佐が頻繁に料亭に出入りし情報収集代として金銭を渡していたことを知り、これを中央に告発、少佐を自決に追い込んでいる。また、ノモンハン事件でさすがにソ連軍に懲りたのか、台湾軍司令部では南進論に転向し、熱帯戦研究を行っている。研究成果は「これだけよめば戦は勝てる」と称した小冊子にまとめられ、後の大戦でこの冊子の記述を信じて戦術を展開した多くの部隊が米軍の火力の前に大敗している。
辻は1941年7月10日に参謀本部作戦課の兵站班長に返り咲く。1941年秋、日米首脳の直接会談によって戦争回避をはかった首相・近衛文麿の爆殺を計画したが、直接会談はおこなわれず、近衛内閣も退陣したため、爆殺計画は実行されなかった。
作戦の神様
太平洋戦争開戦後は、マレー作戦で第5師団の先頭に立って直接作戦指導を行い、敵軍戦車を奪取して敵軍陣地突入を行った。作戦参謀としての任務を放棄し第一線で命令系統を無視して指揮をとることは異例で、現場の混乱を招いている。辻は、新聞記者相手の広報も担当し、記者達は辻がよどみなく語る名作戦の数々に感嘆し、辻を「作戦の神様」ともてはやし、辻は一躍、時代の寵児となった。
シンガポールの占領後、辻は市内の華僑20万人の一斉検問をおこない、この中から抗日分子であると判断した者を大量に処刑したとされる。ただし、上層部の命令の記録は残されておらず、南京事件のように誇張の気がしなくもないが、それでも辻ならやりかねないと思わせるあたりは流石である。「抗日分子」の選別は、辻が現場を訪れて「シンガポールの人口を半分にするつもりでやれ」と指示を飛ばすなど、粛清する人数そのものが目的化されていたため、外見や人相からそれらしい人物を適当に選び出し、多数の無関係のシンガポール華僑が殺害されたとされる。
またフィリピンでも勝手に捕虜・政治家処刑命令を出したと言われる。
辻の起案に反対し、虐殺開始後も中止を主張し続けた司令官、自分の知らないところで命令を出された第14軍司令官であった本間雅晴中将等は戦後行方をくらませた辻の身代わりになって虐殺の責任をとらされる形で戦犯として処刑されている。
ポートモレスビー作戦
太平洋戦線のニューギニア島において、連合軍の反抗拠点となっていたポートモレスビーへの進攻作戦を現地軍が検討していた。しかしながら、進攻にあたっては、標高4,000mの山々を超える必要があるという大きな課題があったため、あくまで作戦研究段階に留まっていた。
現地を訪れた辻は、「本作戦は研究段階ではなく、もはや実施段階なのである」と進攻作戦を直ちに遂行するよう指導した(もちろん独断である)。其の後、大本営から作戦研究進展具合を問う連絡が入った事により辻の独断であった事が発覚し、第17軍司令官百武晴吉中将は不快を示し、辻に帰って貰う事を参謀長二見秋三郎少将に相談するも二見少将が「問題もあるが、辻は私心なき男」と擁護した事により思い留まったという。そして辻の独断は大本営からも特に咎められることもなく、始まった侵攻作戦は完全な失敗に終わり、辻自身は駆逐艦朝凪に便乗してブナ視察にむかったが、到着直前に空襲を受けて朝凪は損傷、辻も頭部に戦傷を負った。
ガダルカナル島の戦い
米軍に飛行場が占領され、日本軍が奪還できずに膠着状態となっていたガダルカナル戦線の打開のため、大本営から辻がガダルカナル島に派遣されることとなった。「作戦の神様」ならなんとかしてくれるだろうと現地部隊は期待したが、辻は現地での同期の多数の指揮官の戦死報告を聞き、呆然としたまま迅速な対応をとることが出来なかった。
現地部隊は、一度失敗したジャングル経由の総攻撃を避けようと考えていたが、辻はあくまでジャングル経由での攻撃を強要した。結果、ジャングルの中を通る急峻な道路によって大砲などもロクに輸送できず、小銃での攻撃に頼るのみであった。重火器で武装する米軍に対して、この条件では作戦の失敗も当然であるが、例によって辻は作戦失敗の責任を現場に押しつけるべく暗躍し、現場指揮官は更迭された。その後、辻は重度のマラリアに罹り、途中本土に撤退している。
その途上のラバウルで彼に会った第38師団参謀黒崎貞明少佐は口では楽観論を語る辻に対して「あれほど強気な人がいくら大本営からの命令でも勝てる戦場での功名を得る機会を捨ててまで退がりはしないのでは?」と訝しみ、第38師団が送られるガダルカナルの戦況が逼迫している事を実感したという。
中国戦線
中央に戻った辻は、大本営でガダルカナル戦の体験談を語り、「2~3個師団を潰してもガダルカナル島に増援兵力をおくるべき」と主張したが、中央にも愛想をつかされ、1943年2月に陸軍大学校教官へ、1943年8月に中国戦線に異動する。
1944年に入り、ビルマ戦線では第2次アキャブ作戦が発動され、花谷第55師団司令官の無能で杜撰な作戦指導により、現地部隊はプチ・インパールとでもいうべき悲惨な状況に陥っていた。花谷は普段から陸大卒のキャリアを鼻にかけ、イキる割には突撃命令を繰り返すしか能がなく、少しでも自分の気に入らない状況になると部下を殴り、自決を強要するあり様であった。花谷の突撃命令を無視して独断撤退し、多くの兵の命を救ったある大佐に対して、花谷は敗北の責任をすべて大佐に擦り付け、更迭した。この大佐は、内地へ帰任後、大本営で東条と出張で中国から大本営に来ていた辻に花谷の無能っぷりと極悪非道ぶりを告発したが、辻は「なぜ全滅しなかったのか」「なぜ全員戦死しなかったのか」と詰問するだけで、稚拙な作戦について追求しようとはしなかったという。この大佐は、辻を含めた陸軍上層部の愚劣さに絶望したのか、戦後自決している。
ビルマ戦線
この頃、辻は蒋介石との講和を主張し、東條首相に嫌われたことから、1944年7月、第33軍参謀としてビルマに左遷された。現地司令官は「なんであんな問題児をよこすんだ」と狼狽した。着任後は、最前線であっても趣味の風紀委員活動は欠かさず実践しており、慰安所開設の決裁を持ってきた先輩将校に対して「こんなものは参謀の見るものではない。少なくとも作戦参謀の見るものではない!」と怒鳴りつけ、書類を床にたたきつけた。
ビルマにおいては拉孟・騰越の戦いに参陣した。連合軍に押されつつあったビルマ北部の都市ミイトキーナの日本軍守備隊に対して、辻は男泣きしながら「水上少将はミイトキーナを死守すべし」と、異例の現地司令官個人宛ての死守命令を起案し、突然泣き出した辻が醸し出す異様な雰囲気の中、各参謀に合議を求めた。ある参謀は、これを「水上部隊は」と修正しようとしたが、辻は断固として応じなかった。死守命令の打電後、しばらくすると水上少将に「貴官ヲ二階級特進セシム」「貴官ヲ以後軍神ト称セシム」との怪電報が追加で送られてきた。これは、辻が独断で打った電報であるが、水上少将は「妙な香典がとどきましたね」「へんな弔辞がとどきましたね」とその後の運命を決心したかのようにこぼしている。「水上少将ハ」の電報命令を逆手にとり、水上少将は現地部隊への撤退命令を出した後、自決した。命令を受けて撤退してきた将校を発見すると、辻は「貴様は現役将校のくせに、なぜ水上閣下のあとを追って自決しなかったのだ」と叱責し、暴行した。辻は、撤退してきた将兵を集め、行けば必ず死ぬと分かっている雲南の戦場へ派遣し、その将校以下多数が戦死した。
辻自身は作戦指揮中、寝返ったビルマ軍の襲撃を受け負傷、後送される。
終戦
第18方面軍高級参謀としてバンコクにおいて終戦を迎えた辻は、イギリスが戦犯容疑で追及を行うことが自明であったため、僧侶に変装しタイ国内に潜伏した。元軍人が僧侶に変装しているとの情報を得たイギリスが捜索を強化すると、辻はバンコクにおける中華民国代表部に赴いて日中平和の為働きたいと大見得を切り、この助けにより1945年11月に仏印ヴェンチャン、ユエ経由でハノイに渡り、さらにここから飛行機で重慶へと向かった。中国では連合国であった国民党政権に匿われ、しかも国民党政権の国防部勤務という肩書きを与えられた。
やがて始まった中国の国共内戦が国民党に不利になりはじめたことから中国にとどまることにも危機を感じ、1948年に上海経由で日本に帰国し、戦犯で訴追されるのを避けて国内に潜伏する。戦友、寺院、右翼団体に匿われたり、偽名で炭鉱労働者をしたりと国内を転々とした。
1950年に辻は戦犯指定から逃れ、再び世に姿を現すことになった。逃走潜伏中の記録『潜行三千里』を発表して同年度のベストセラーとなる。同時に『十五対一』もベストテン入りしている。
政治家として
公職追放解除後、1952年(昭和27年)に旧石川1区から衆議院議員に初当選。自由党を経て自由民主党鳩山派、石橋派に所属。自民党内部で敵をつくりまくり、同年、岸信介攻撃で自民党を除名されて議員を辞職したが、参議院議員(全国区)に鞍替えして第3位で当選した。
1961年、辻は参議院に対して東南アジアの視察を目的として40日間の休暇を申請し、4月4日に公用旅券で日本を出発した。予定では1ヶ月程度の日程であったが、4月21日を最後にラオスで失踪した。その後の調査によって、仏教の僧侶に扮してラオス北部のジャール平原へ単身向かったことが判明している。
失踪の原因については、フランスに処刑された、中国共産党に拉致されたなど諸説ある。その後、家族の失踪宣告請求により、東京家庭裁判所は1968年7月20日付で死亡宣告を行なった。