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舩坂弘

ふなさかひろし

旧日本軍(大日本帝国陸軍)の元軍人であり、日本初のビルを丸ごと一つ使った書店デパートである大盛堂書店初代代表取締役会長、南太平洋慰霊協会理事である。1920年10月30日生まれ、2006年2月11日没。
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舩坂弘とは、精神論を具現化した大日本帝国軍サイボーグである。

もしくは実在したメタルダー・・・そんな冗談はさておき具体的な内容は下記の通り。


※「船坂弘」とよく書き間違えられる事が多いが、「舩坂弘」が正しい。


どのような人物か

最終階級は軍曹第二次世界大戦パラオマリアナ戦役の最後の戦いである、アンガウルの戦いで活躍した。存命時には「生きている英霊」と呼ばれた。

戦中の呼称は、「不死身の分隊長」「鬼の分隊長」「グンソーフクダ」。


一言で彼を表現すると「メビウス1」、「アンブレイカブル」、「リアル絢爛舞踏」または「リアル異能生存体」「リアル亜人」である。日本の公式な戦史である「戦史叢書」には、個人としては唯一、彼だけが個人名として登場する。

特別銃剣術徽章、特別射撃徽章、剣道六段教士、居合道錬士、銃剣道錬士など、武道射撃の技能を相当に習熟していた超優秀な軍人


舩坂弘の伝説

アンガウルの戦い

アンガウルの戦いは、第二次世界大戦におけるパラオ - マリアナ戦役最後の戦いであり、この戦いで弘は多大な戦果を上げることになる。

擲弾筒および臼砲にて米兵を200人以上殺傷したと自著にて記述。

水際作戦により中隊が壊滅する中、弘は筒身が真赤になるまで擲弾筒を撃ち続け、退却後は大隊残存兵らと島の北西の洞窟に籠城、ゲリラ戦へと移行した。

3日目には、弘も米軍の攻勢の前に左大腿部に裂傷を負う。

米軍の銃火の中に数時間放置され、ようやく頼みの軍医がやって来るも、傷口を一目見るなり、自決用の手榴弾を手渡して去ってしまったという。

しかし、瀕死の重傷を負いながらも弘は足を包帯代わりの日章旗で縛ることで止血し、夜通し這うことで洞窟陣地に帰り着き、翌日には左足を引き摺りながらも歩けるまでに回復している。

その後も瀕死クラスのを何度も負うも、動くことすらままならないと思われるような傷でも、不思議と翌日には回復しているのが常であった

これについて弘は「生まれつき傷が治りやすい体質であったことに助けられたようだ」と、その事由を述べている。

・・・傷ってレベルじゃねーぞ!


弘は絶望的な戦況にあってなお、拳銃の3連射で3人の米兵を倒したり、米兵から鹵獲した短機関銃で3人を一度に斃し、左足と両腕を負傷した状態で、銃剣で1人刺殺し、短機関銃を手にしていたもう1人に投げて顎部に突き刺して殺すなど、鬼神の如く奮戦を続けていた。

実際、弘の姿を見た部隊員たちから、「不死身の分隊長」「鬼の分隊長」と形容する声が聞かれるほどであった。(自著『英霊の絶叫 - 玉砕島アンガウル戦記』より)

しかし、食料ももない戦場での戦いは日本兵を徐々に追い詰めて行き、洞窟壕の中は自決の手榴弾を求める重傷者の呻き声で、生き地獄の様相を醸し出していた。

弘自身も腹部盲貫銃創の重傷を負って這うことしか出来なくなり、その傷口から蛆虫が涌くのを見るにつけ、蛆に食われて死ぬくらいなら最早これまでと、ついに自決を決意している。

ところが、思いに反して手榴弾は不発であった。弘は暫し茫然とし、「なぜ死ねないのか、まだ死なせて貰えないのか」と、深い絶望感を味わったという。

戦友も次々と倒れ部隊も壊滅するに及び、弘は死ぬ前にせめて敵将に一矢報いんと米軍司令部への単身斬り込み、肉弾自爆を決意する。

なお、蛆虫は拳銃弾の火薬を患部に流し込み撃退したが、あまりの激痛に意識を失い、半日ほど死線を彷徨することになる。

そののち、手榴弾6発を身体にくくりつけ、拳銃1丁を持って数夜這い続けることにより、前哨陣地を突破し、4日目には米軍指揮所テント群に20メートルの地点にまで潜入していた。

弘は米軍指揮官らが指揮所テントに集合する時に突入すると決めていた。

当時、米軍指揮所周辺には歩兵6個大隊、戦車1個大隊、砲兵6個中隊や高射機関砲大隊など総勢1万人が駐屯しており、舩坂はこれら指揮官が指揮所テントに集まる時を狙い、待ち構えていたのである。

弘はジープが続々と司令部に乗り付けるのを見、右手に手榴弾の安全栓を抜いて握り締め、左手に拳銃を持ち、全力を絞り出し、立ち上がった。

だが、突然茂みから姿を現した異様な風体の日本兵に、発見した米兵もしばし呆然として声も出なかったという。

なぜか?

この時までに弘の体は、負傷は戦闘初日から数えて大小24箇所に及んでおり、このうち重傷は左大腿部裂傷、左上膊部(=上腕部)貫通銃創2箇所、頭部打撲傷、左腹部盲貫銃創の5箇所、さらに右肩捻挫、右足首脱臼を負っていた。

また、長い間匍匐していたため、肘や足は服が擦り切れてボロボロになっており、さらに連日の戦闘による火傷と全身20箇所に食い込んだ砲弾の破片によって、さながら幽鬼か亡霊のような有様で、そのあまりにも凄まじい姿に米兵は驚いてしまったのだ。


米軍の動揺を尻目に弘は司令部目掛け渾身の力で突進するも、手榴弾の信管を叩こうとした瞬間、頸部を撃たれて昏倒し、戦死と判断される。

駆けつけた米軍軍医は、無駄だと思いつつも弘を野戦病院に運んだ。

このとき、軍医は手榴弾と拳銃を握り締めたままの指を一本一本解きほぐしながら、米兵の観衆に向かって、「これがハラキリだ。日本のサムライだけができる勇敢な死に方だ」と語っている(自著『殉国の炎』潮出版社 ロバート・E・テイラー和訳より)。


しかし、弘は3日後米軍野戦病院で蘇生する。

当初弘は情をかけられたと勘違いし、周囲の医療器具を叩き壊し、急いで駆けつけたMPの銃口に自分の身体を押し付け「撃て!殺せ!早く殺すんだ!」と暴れ回った。

この奇妙な日本兵の話はアンガウルの米兵の間で瞬く間に話題となり、伝説と化した。

弘の無謀な計画に恐れをなしながらも、大半はその勇気を称え、「勇敢なる兵士」の名を贈ったという。

元アンガウル島米軍兵であったマサチューセッツ大学教授のロバート・E・テイラーは、戦後舩坂宛ての手紙の中で、「あなたのあの時の勇敢な行動を私たちは忘れられません。あなたのような人がいるということは、日本人全体の誇りとして残ることです」と、讃辞の言葉を送っている。

その後、数日の捕虜訊問を経て、弘はペリリュー島の捕虜収容所に身柄を移される。

このとき既に「勇敢な兵士」の伝説はペリリュー島にまで伝わっており、米軍側は特に『“グンソー・フクダ(弘は所属が判らぬよう福田という偽名を使っていた)”の言動・行動には注意しろ』と、要注意人物の筆頭にその名を挙げるほどになっていた。

しかし孚虜となっても弘の闘志は衰えず、ペリリューに身柄を移されて2日目には、瀕死の重傷と思われていたことで監視が甘かった状態を利用し、収容所から抜け出すことに成功

1000メートルを潜んで行って日本兵の遺体に辿りつき、弾丸入れから抜き取った小銃弾の火薬によって、米軍弾薬庫の爆破に成功している。


爆破後は来た道を戻り、翌朝の点呼に何食わぬ顔で参加している

そのために捜査にも拘らず弾薬庫爆発の原因は判明せず、記録では爆発は原因不明となっていた。


その後、米軍飛行場への放火を試みるが、米軍のフォレスト・ヴァーノン・クレンショー伍長によって取り押さえられた。

この伍長は敬虔なクリスチャンの家に生まれ、人を殺すのが嫌だから大急ぎで日本語を勉強して通訳に回してもらったという温厚な人物である。

しかし身長190cm、体重94kgという巨漢であり、いくら弘でも栄養失調気味の状態で敵う相手ではなかった。

彼は二度に渡って弘の脱走を阻止したが、そのことを上官に報告しなかった。

そして「貴方はもう十分頑張った。もう死ぬことを考えてはならない。生きて日本へ帰り、国の立て直しに力を尽くせ」と繰り返し説いた。

敵である自分に真摯に向き合おうとするクレンショー伍長に対し、弘も次第に心を開き、二人の友情は戦後まで続いた。

この辺りのことは著書「英霊の絶叫」に詳しく書かれているので、読んでみることをお勧めする。

ネット上では不死身の生命力と敢闘精神ばかりが取り上げられる舩坂弘も、やはり一人の人間であったことが分かるエピソードなのだ。


戦後

その後、弘はペリリュー島捕虜収容所を去り、グアムハワイサンフランシスコテキサスと終戦まで収容所を転々と移動し、1946年に帰国した。

故郷では、当然弘は戦死したものと思われており、弘が故郷に帰って一番初めに行なったことは「舩坂弘之墓」と書かれた墓標を抜くことであったという。しばらくの間は、周囲の人々から「幽霊ではないか」と噂をされる、また、ボロボロの軍衣で生家に戻り、先祖に生還の報告をしようと仏壇に合掌すると、真新しい位牌に「大勇南海弘院殿鉄武居士」と記されており驚いたという。



戦後復興の中、戦争での強烈な体験から弘は、この眼で見てきたアメリカのあらゆる先進性を学ぶことが、日本の産業文化教育を豊かにすることではなかろうかとの思いから、書店経営を思い立つ。弘は渋谷駅前の養父の書店の地所に僅か一坪の店を開き、帰って来た戦死者としての余生を、書店経営で社会に捧げたいとの思いにぶつけた。

これは日本で初めての試みとなる、建物を全て使用した「本のデパート・大盛堂書店」の創設へと繋がった。

また、個人の戦闘記録としては唯一戦史叢書に載せられている。戦史叢書の『陸軍作戦史二巻』には、「船坂軍曹は、激戦ののち重傷、最後に敵将に一矢を報いんとして──中略──三日間意識不明、死の世界を彷徨し、米軍に手厚く看護され蘇生。昭和二十一年正月、奇跡的に復員帰国した」とある。

三島由紀夫とは剣道を通じて親交があり、舩坂の自叙伝である『英霊の絶叫-玉砕島アンガウル』の序文は三島が寄せている。

また弘は、自決の際介錯に使われた三島自慢の愛刀、関孫六(後代)を贈った人物でもある。この経緯を詳しく記した著作が残されている(『関ノ孫六』光文社カッパブックスより)。

弘は『英霊の絶叫』のあとがきに、アンガウル島に鎮魂の慰霊碑を建立することが自らの生涯を賭けた使命と記した。これは後に同書を読んだ人々からの義援金の助力もあって実現し、以後、戦記を書いてはその印税を投じ、ペリリュー、ガドブス、コロール、グアム等の島々にも、次々と慰霊碑を建立した。

また、書店経営の忙しさの中でも、アンガウル島での収骨慰霊を毎年欠かすことはなかった。その後、遺族を募って慰霊団を組織し、現地墓参に引率し、さらにパラオ諸島原住民に対する援助や、現地と日本間の交流開発に尽力。また、数年にわたる戦没者の調査と遺族への連絡等々、精力的に活動を行い、その人生を捧げた。

これらを指して、弘を知る人たちは「生きている英霊」と呼び、業績を称揚している。

慰霊碑の慰文には、「尊い平和の礎のため、勇敢に戦った守備隊将兵の冥福を祈り、永久に其の功績を伝承し、感謝と敬仰の誠を此処に捧げます」と刻み込まれている。


主な著書

  • 『英霊の絶叫-玉砕島アンガウル』
  • 『関ノ孫六-三島由紀夫 その死の秘密』
  • 『昭和の剣聖・持田盛二

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