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三島由紀夫

みしまゆきお

日本の小説家、劇作家、思想家、評論家。戦後の日本文学界を代表する作家の一人。1925年 - 1970年〈45歳〉
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三島由紀夫〈Yukio Mishima〉

(みしまゆきお)

本名:平岡公威〈Hiraoka Kimitake〉

(ひらおかきみたけ)


人物編集

1925年(大正14年)1月14日 東京生まれ。東京帝国大学卒(本籍地は兵庫県)の小説家、小説家、劇作家、思想家、評論家。高級大蔵官僚家の子 幼いころより、病弱神経質、(不本意であったが)女装的格好をしてすごし、独自の夢想的人格形成をした。

戦時中に、志願兵として徴兵検査を受けるが、華奢な体のせいで不適格となる。その後、父親のコネもあり大蔵省へ入り大蔵職員になるが、仕事に必要な体力が追いつかず、徐々に執筆活動に専念した。


小説家になると独自の雰囲気を持つ小説を発表し一躍人気作家に躍り出た。その後、その独自な性格を生かした仕事(戯曲、評論)をはじめると、徐々に「天皇、日本国家、日本人」を追及しだし、やはり独自の国家論、や日本人論を展開するようになった。


当時左翼運動が激化する政治情勢の中、我慢できなくなった三島は、1960年後半に反共の祖国防衛の決起隊を目指した軍隊的組織「楯の会」を結成する。当時の自民党政権の佐藤栄作総理が資金援助を申し出たが、三島は拒否した。


その後突如として、1970年(昭和45年)11月25日に、楯の会メンバーと共に陸上自衛隊東部方面総監部に乱入し、反共反米の決起を促す演説をしたあと、割腹自殺をし死亡した。(三島事件)

三島由紀夫

病弱な 幼少・少年期・青年期編集

イメージがかなり違うかもしれないが幼少期の由紀夫は稚児のような格好で過ごしていた。三島の家は華族階級の習慣が残っていたので幼少期で女装していたのだ(古い権力階級などでは子供時代に女装する習慣があることは世界的に見てもは珍しいことではなかった)。

しかも病弱であり、少年期から青年期に至ってもかなり細い体格であった。このためか三島自身は『強い漢』にあこがれていたと後に述懐しており、中年~晩年にいたるとボディービルを始め、強靭な肉体を手に入れた。

どうやらその肉体には相当の自信があったらしく、取材等でカメラマンが何も言わずに三島にカメラを向けるとたびたび勝手に服を脱いで裸になろうとしたというエピソードがある他、自身の全裸写真集『薔薇刑まで出版してしまっている。

が、その肉体はかなりアンバランスであった。トレーニングメニューは一般的にミラーマッスル、鏡によく映る腕と胸を鍛えるものが中心で、腕立て伏せなどは一回り年下の自衛隊員よりこなすことができたが下半身は貧弱で、彼の下半身の細さを見た自衛隊員やジムの会員からは低い評価を下されている。


一方、彼の幼少期の文学的才能は非常に早熟で、当時は小説ではなく主に詩作に夢中であった。鋭敏な感性と詩的才能、抜きん出た文才が如実に現れている『酸模』という小説がある。

こうした才能は三島の才能であったが、一方で『詩を書く少年』という短編に書かれるように、彼は自身を天性の詩人ではないとし、単なる言葉の感覚に優れた人物であるという評価を下していた。『およそ少量の詩才ほど作家を毒するものはない』というシモンズの言葉を知った後、花ざかりの森以降の作品に於いて詩的要素をとことん擯斥し、法学部で学んだ刑事訴訟法の稠密な方法論に基づいて作品構成をしていることから、自分の詩才そのものを『少量』と考えていたふしさえある。



西洋風愛国者~明治崇拝者~『強いもの』にひかれて編集

政治信条としては国粋主義的思想であった。後醍醐天皇を奉じて戦った南北朝時代の楠木正成や、江戸時代の泰平の世にあって戦国時代の遺風に殉じ「上方風の打上がりたる武道」を痛烈に批判した『葉隠』の美学に憧れていた。

一方で、古代ローマ古代ギリシアに心酔し南欧風の洋館を建てフランス料理を好むなど西洋趣味でもあった。英語もかなり堪能で、海外からの取材には通訳を介さず応じた。


作風編集

豊富な知識と語彙力に裏付けされた極めて理知的な文章に特徴があり、『仮面の告白』『金閣寺』などでそれを垣間見ることができる。一方、青年期の純愛小説『潮騒』のように軽妙な表現も、『美しい星』のようなSF小説も制作したりと、作風は至って幅広い。圧倒的に三島の名を高めたのは現代文学の最高傑作の一つとも言われる『金閣寺』であり、それまで三島文学を否定していた連中が異口同音に実力を認めるほどとなった。同作は、その後の映画『金閣寺』でも有名になった。


戦後の国語政策に異議を唱えた一人であり新字体・現代仮名遣いを毛嫌いし、旧字体・歴史的仮名遣いを用いていた。また、衒学的なほど古い言い回しをするのも好んでおり、かかずらわって、かてて加えて、あたら、などといったあまり使われなくなった、他の小説家が使わないような熟語も愛用していた。


交友関係編集

森鴎外を深く尊敬していた。泉鏡花内田百閒稲垣足穂についても「天才」と評価している。

太宰治の作品を嫌っており、大宰本人に対して面と向かって「僕は太宰さんの文学は嫌いなんです」と言い切ったというエピソードがある。

生前は美輪明宏と交流が深く、江戸川乱歩作の「黒蜥蜴」を戯曲化して美輪に主演を依頼したのを皮切りにして、自決事件の直前まで公私共に長い付き合いを重ねていた。なお、美輪は三島の壮絶な自決の最期を知った時、頭の中が真っ白になったとかなりショックを受けた事を振り返っている。


また、若手の小説家に対して毀誉褒貶の評価もしており、安部公房や北杜夫を高く買っていた。特に北杜夫は三島によって小説家の地位を得たと言っても過言ではない。


同性愛者という説が非常に有名だが、日本画家の重鎮・杉山寧の娘・瑶子と結婚して子供ももうけているほか、意中の相手が結婚してしまったため一晩中やけ酒を煽ったなどのエピソードもあり、バイセクシャルであったとも言われている。一説には、そもそも彼は真正のゲイではなく、知識人の間で流行していた同性愛を装っただけとも言われている。(なお、彼の同性愛趣向を表す有名なエピソードとして、自決後の死体の腸から精液が発見されたという話があるが、これは誤りである。実際に発見されたのは脱脂綿で、これは自殺の後筋肉が弛緩することで糞便が漏れるのを防ぐためのものである。)


楯の会と“軍人”三島由紀夫編集

三島は自費で『軍隊楯の会)』を結成し、最終的にここが死に場所となった。

これは戦後高度経済成長する日本で、かつての帝国日本的文化精神が薄れていくことが耐えられなくなったからだともいわれる。


楯の会の活動を通じ、陸上自衛隊対心理情報課程(不正規戦・情報戦を行う人員を育成する課程)に所属する山本舜勝一等陸佐(退役時陸陸将補)を顧問として、同会会員に市街地における不正規戦訓練を実施し、また、クーデターを視野に入れた活動をも実行していた事を山本一佐は著作「自衛隊 影の部隊」で主張している。山本元一佐は再三クーデター実行の誘いをしてくる三島に、“今はその時ではない”として退けたが、その際に部下であった若手の陸上自衛官から三島の意に沿わない事への不満が電話で伝えられ、“兵員の心理掌握に関しては自分を超えていたかもしれない”と作家としてではなく“軍人”としての顔の三島を回顧している。


尚、対心理情報課程は現在は廃止され、近年の陸上自衛隊における情報科の創設まで“表立った防諜要員の養成機関”は存在しなかった。


また、楯の会は本来、兵力の限られた自衛隊の補完機関としての“民間の祖国防衛隊”という準軍組織(欧米でいうフライコーアのような公的ではない軍備)のような方向を目指しており、政界・財界の広範な支援を以て、自衛隊が担っているものの専門性を高度に有しない沿岸の警備、或いは思想侵略からの国民の防備・状況によっては市街地での治安活動などの任務に投入される“不正規軍”になることが想定されていたが、三島の思想を理解しない政財界からの“私兵のレッテル貼り”を受けたことによる三島の絶望から、政財界と言った“社会との横の繋がり”を排した自分たちのみによる“縦の構造”による尖鋭化による防衛行動への決心の表れとして名称に“楯”の字を用いた、と山本一佐は主張している。


主な作品編集

小説編集

戯曲編集

随筆編集


関連タグ編集

小説家 文豪 憂国忌

帝都物語 美輪明宏 陸上自衛隊

同性愛 男色家 楯の会 ボディービル


彼をモデルにしたキャラクター編集

ゴトウ一等陸佐(真・女神転生)

サラマンダー公威(よんでますよ、アザゼルさん。)

石馬戒厳刃鳴散らす

三島由輝ペルソナ5


その他編集

民社党・・・「楯の会が決起するときに協力できそうな勢力は、現時点では「民主社会党(民社党)」だけだ。」とコメントしたことがある。


江頭2:50・・・顔つきが似ていると言われる事がある。

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