憂国忌実行委員会が毎年開催される追悼慰霊祭の名称。
概要
昭和45年11/25、楯の会会員森田必勝等四名と共に三島由紀夫は自衛隊市ヶ谷駐屯地に乗り込むと、
益田兼利東部方面総監を拘束した上で、バルコニーに立って自衛隊員にクーデターを仕掛け、憲法に体当たりするよう促す演説をしたが、結局演説によるクーデターは失敗。
三島由紀夫はクーデターの失敗により、森田必勝と共に割腹切腹をして果てた。
享年45歳。
三島由紀夫は『果たし得てゐない約束ー私の中の二十五年(産経新聞の当年07/07掲載)』で、
「私はこれからの日本に大して希望を持つことができない」と吐露しており、国への憂いを抱いていたことが読み取れる。
12月11日、林房雄が発起して「三島由紀夫氏追悼の夕べ」が開かれた。後に憂国忌と呼ばれるようになっていった。
三島由紀夫の心情・行動は保守系(右翼)言論人の共感を広く呼び、現在まで長く継続し続けている。