1968年(昭和43年)10月5日に正式結成。
三島由紀夫持論による左翼革命勢力による日本への間接侵略に対抗することを標榜、会員は主に民族派の学生を中心としていた。
隊員には独自の制服、制帽、軍靴、特殊警棒、会員手帳が支給され、またそれらの支給品の費用や、月一回の定例会合の会場費や講義費、交通費、食事代等、全て三島の自費により賄われていた(自費で行うようになったのは支援協力を求めた相手に楯の会を馬鹿にされた事がきっかけらしい)。自衛隊の体験入隊や空手・剣道・居合の稽古等厳しい訓練を行っていたという。
最盛期には100名を超える会員を擁し、先述した訓練を経て会員達は自衛隊将校が驚く程精鋭されていった。一方、世間から「玩具の兵隊」などと嘲笑されたり、会の規模が大きくなるにつれ、会員の間で派閥が出来て対立したり、一部の会員が三島と反りが合わなくなった末に脱退したりと組織が大きくなる事による弊害も起きていた。また、初期こそ明確な信念を持って入会した者が多かったが、後期には楯の会を取り上げたグラビア雑誌等を見て制服や銃への憧れだけで入会する者が増える等、会員の質も低下していたと言う(この後期に入会した会員の中には三島事件後に楯の会で活動していた事が就職に悪影響を及ぼすことを恐れ、ただちに退会した者もいたらしい)。楯の会の運営は決して順風満帆では無かった。
1970年(昭和45年)11月25日に隊長の三島と四人の会員(森田必勝、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖)が、陸上自衛隊東部方面総監部襲撃事件(いわゆる三島事件)を起こし、三島と森田が割腹自殺を遂げ、他の三名は逮捕された。
翌年の1971年(昭和46年)2月28日に解散した。解散後連絡機関として「三島森田事務所」が設立され、また一部会員が「蛟龍会」を1980年に設立している。
この事件に衝撃を受けた新右翼の学生によって1972年一水会が設立された。
この事件は1945年に発生した「松江騒擾事件」、1961年に発生した「三無事件」と並ぶ戦後クーデター未遂事件であり、戦前のクーデターで犠牲者を出した警察が自衛隊に対し強い警戒を抱く一因となった。その為、公安警察には「自衛隊監視班」が存在している。
1977年の経団連襲撃事件においても元会員2名が参加している。
なお、手塚治虫「やけっぱちのマリア」に楯の会をもじったタテヨコの会が登場している。
制服
制服は、以下の二種類がある。
- 夏服:メイン画像にあるような白の詰襟でボタンは金色のシングルの物。
- 冬服:三島事件などで撮られた三島由紀夫の写真にあるように、カーキ色で襟と袖口に緑色が入る詰襟。ボタンは銀色のダブル。
両方とも、襟には金色の星型の徽章が付き、それぞれに同じ色の制帽が付属した。
冬服
楯の会解散後は三島由紀夫の妻である平岡瑤子夫人に返却されたとされているが、たまにヤフオクなどに本物が出品されていたりする。
また、レプリカなども制作されたことがあり、コミケに楯の会制服を着たスタッフがいることが一時期話題になったこともあった。