概要
建国(伝承では紀元前753年)以来の都市国家から発して地中海周辺地域を支配する巨大な帝国にまで発展した古代国家。
後世のヨーロッパにおいてこの国家が与えた影響は大きく、文化、学問、芸術、法制度など、様々なものがこの時代を参考にして築かれた。
「パクス・ロマーナ」という語はこのローマの強大な権勢による治世を表した言葉であり、現代においても世界大戦後のアメリカ一強体制を「パクス・アメリカーナ」と呼んでローマになぞらえたり、恐るべき核兵器の抑止力の下での世界平和を「パクス・アトミカ」と捩るなどして使われるほどである。
歴史
時代的な区分としては、大きく三つに分かれるとされる。
王政、共和政、帝政と政治体制を変えつつも1453年に東ローマ帝国が滅亡するまで「ローマ」として連続性を保ち続けた。国家としてのこれを指す際に、ローマの支配領域を意味する「ローマ帝国」(Imperium Romanum)や、主権者が誰かを示し繰り返し用いられた標語「SPQR」(元老院及びローマ人民)を便宜上用いられることがある。
王政ローマ
伝説によると、元々は狼に育てられた二人の王子ロムルスとレムスによってイタリア半島中部の都市国家が建国された末に、二人による決闘の末にロムルスが勝利したことで、それ以降はロムルスの血筋によって都市国家ローマが治められる。
その後、七代目までは王による統治が行われていたが、市民や貴族の意向を無視した横暴な政治を執り行ったため、紀元前6世紀に貴族たちが王を追放したことで共和制に移行する。
共和制ローマ
共和制に移行してからは、主に貴族によって運営される元老院を中心として、市民による立法機関である民会の意志も反映した民主政治で国家が運営され、周辺の都市国家に侵略を繰り返して勢力を拡大することでイタリア半島を支配する大国に発展した。
イタリア半島を支配して以降は、地中海周辺の地域へと侵略の規模を拡大し、シチリア島の領有を巡って当時の地中海を支配していたカルタゴと戦争を繰り広げることになる。
ポエニ戦争と呼ばれることになるこの戦争は合計で三度行われ、特に第二次ポエニ戦争は、後世に天才戦術家として名高いハンニバル・バルカが出現した戦争であり、彼の独創的な戦術は二千年以上経った今もなお実戦で通用する作戦として、世界中の士官学校で教えられている。
この天才・ハンニバルに勝利したことでローマは地中海の覇権を確固たるものとする。
ポエニ戦争以降、ローマの拡大に歯止めを止める勢力は存在せず、紀元前2世紀頃以降の、イタリアの枠を超えた大国になってからのローマを指して、「ローマ帝国」とも称される。一方で拡大するローマに従来の共和制都市国家の体制を適用するのはもはや限界であり、機能不全に陥った共和制に代わって私兵化した軍を背景とした有力政治家達が台頭するようになる(内乱の1世紀)。
共和政末期の紀元前1世紀にガイウス・ユリウス・カエサルが独裁的権力を確立し、帝政への道を開いた。
帝政ローマ
カエサル自身は反対派に暗殺されるも(「ブルータス、お前もか」)、カエサルの体制を継いだアウグストゥスは紀元前27年に全権を掌握し帝政を開始する。以降政治の実権はローマ皇帝が担うことになる。
紀元1世紀の末から2世紀にかけて即位した5人の皇帝の時代に帝国は最盛期を迎えた。この時代を五賢帝時代と呼ぶ。
五賢帝時代以降、ローマ帝国は暗君が続いたことにより弱体化。出生率の低下や疫病の蔓延による人口減、北方からの蛮族(ゲルマン人)の侵入、ササン朝ペルシアとの戦争など多くの要因が重なり、3世紀頃から広大な領土を一体的に統治することが困難となっていった。
ディオクレティアヌスによって四人の皇帝による分割統治であるテトラルキアが開始され、ローマ帝国の首都はイタリア半島のローマではなく、ギリシャへと移ることになった。
その後、ディオクレティアヌスの後を継いだコンスタンティヌスによって、ビザンティウム(現イスタンブール)が首都とされる。
395年の東西分裂確定後間もなく、ラヴェンナを首都とした西ローマ帝国は滅亡するが、引き続きビザンティウムを首都とする東ローマ帝国は地中海東部を主領域として存続した。
東ローマ帝国はローマではなくビザンティウムを首都としていたことから「ビザンツ帝国」と称されることがあるが、冒頭記したとおり「ローマ」として連続性を保っており当該国家自体は最後まで「ローマ(帝国)」を称していた。
ただし、中期以降のビザンツ帝国はギリシャ語を話すギリシャ人の国家と化していた。
ローマとキリスト
キリスト教がこんにちの世界に地球規模で広まっているのも、古くはこの帝政ローマが4世紀に国教として認定したことが大きな原因のひとつである。「ローマ神話」の存在が示すように元々は別の神々が信じられていたうえ、イエス・キリストを処刑したのが他でもないこの帝政ローマであり、彼の死後も帝国はネロらがキリスト教徒を苛烈に弾圧することもあったのだが、上述の皇帝コンスタンティヌスがキリスト教へ改宗するなどの出来事を経て公認に至った。以後、この大帝国の支援のもとで、その後の時代にさらなる布教が世界規模で進んでいくことになる。
そのイエスの有名な言葉の一つ「カエサルのものはカエサルに」は、上記のユリウス・カエサルの個人名ではなく、ローマ皇帝の称号や代名詞としての「カエサル」を指す。先の通り養子アウグストゥスがカエサルの家名を継いで初代皇帝となったことでその名はローマ皇帝の別名として定着していったため、イエスがこの言葉を述べたときも当代の皇帝ティベリウスを呼ぶ意味で使っていた。