概要
カルタゴとは、紀元前800年代~紀元後698年ごろまで存在した、現在のチュニジア共和国の首都チュニスに程近い湖であるチュニス湖東岸にあった古代都市国家。
現在のシリア・パレスチナを根拠地とするフェニキアの移民によって築きあげられた。伝説では、ティルスの女王ディードーが兄に夫を殺された後に北アフリカの岬に上陸したのが始まり。ディードーは土地の王から一頭の牛の皮で覆えるだけの土地なら居住して良いと言われた。そこで賢明なるディードーは牛の皮を細く裁断して紐とし、海に面した大きな丘を囲ってみせて、ついにその丘を入手した。これが後のカルタゴであるという。歴史上で明らかなことは、現代のレバノンにあったティルスというフェニキア都市国家の民が築いた植民市がカルタゴであるということである。
その後ティルスはアッシリアに征服されて衰退するが、カルタゴはその影響を逃れてフェニキア人の優れた航海技術を継承した。こうしてカルタゴは、強力な海軍とジブラルタル海峡を越えてアフリカにまで達する貿易ルートを擁して繁栄する。ついには古代ギリシャ民族と地中海を二分し、カルタゴは西地球海の覇者となった。全盛期には北アフリカ各地に領土を広げ、サルディニア島、コルシカ島、シチリア島、そしてスペインを保有していた。
やがて、チュニジアとは対岸のイタリア半島に勃興してきた古代ローマ(共和政ローマ)と対立し、1~3次のポエニ戦争(ポエニはフェニキアの訛り)で滅亡した。
第二次ポエニ戦争の武将(というか首謀者)のハンニバル・バルカの名声は高い。
尚、カルタゴ滅亡後、ローマ人が再興させまいと農地に塩を振り撒いた伝説があり、そこから転じて「農地に除草・防虫目的で塩をドバドバ投入する農法」をカルタゴ農法と呼ぶようになった(だいたい天穂のサクナヒメのせい)。
ネット上で話題にされる際はとりあえず最後に「ともあれカルタゴは滅ぼされるべきである」と最後につけられがち。
これはローマの政治家、大カトーことマルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウスが全く関係のない演説でも最後にこのフレーズをつけてカルタゴを滅ぼすべしという機運を作ろうとしたエピソードが存在するため。ともあれカルタゴは滅ぼされるべきである
なお、現在でも「カルタゴ」(厳密にはフランス語読みの「カルタージュ」)という地名はチュニス近郊の地区名として用いられている。
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SCP-2513…ともあれカルタゴ滅ぶべし