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もしかして→アッシリア

STG『ドラゴンセイバー』の自機(2P)キャラはシリア・フィリアーネを参照


地域としてのシリア編集

人類文明が早くに発生した地域のひとつとされ、現在のシリア・アラブ共和国およびレバノンヨルダンパレスチナイスラエルトルコの一部を含む地域。歴史的シリア、大シリア、シリア地方とも呼ばれる。


国としてのシリア編集

正式名称はシリア・アラブ共和国。

面積18.5万平方km、人口2156万人(2022年推定)、首都はダマスカス

北はトルコ、東はイラク、南はヨルダン、南西はイスラエル、西はレバノンと接し、北西は地中海に面するアラブ諸国の一つ。


シリア愛国歌は聞いてみるとカッコ良い。


歴史編集

古代編集

いわゆる「肥沃な三日月地帯」の一角を占め、生産力が豊かであり、かつ南のパレスチナ地域とともに、メソポタミア文明エジプト文明の双方の影響がおよび、東地中海世界とも結びついた、オリエント世界の十字路の役割を果たした。

前13世紀、エジプト新王国のラムセス2世ヒッタイトとシリア・パレスティナの覇権を争い、前1286年、交易の要衝カデシュで衝突、カデシュの戦いとなった。両国は引き分け、戦後、世界最古と言われる平和条約を締結している。

その後、前1200年ごろから、シリアにはセム系民族のアラム人が陸上交易活動を展開するようになり、ダマスカスを建設した。オリエントの統一期を迎え、アッシリア、次いでアケメネス朝ペルシア帝国に支配された。

前333年にアレキサンダー大王がシリア北部のイッソスの戦いでペルシア帝国ダレイオス3世軍を破り、アレクサンドロスの大帝国の一部となった。その死後はヘレニズム三国の一つ・セレウコス朝シリアが前312年に成立した。セレウコス朝は305年にはセレウキアを、300年にはアンティオキアを建設して第2の都とした。またイラン高原からバクトリアにかけて支配を及ぼし大帝国となったが、前305年にはインドに侵攻を試みたが、マウリヤ朝のチャンドラグプタ王に敗れて撤退した。

前64年、ローマ帝国の将軍ポンペイウスに敗れ、ローマの支配下になる。


3世紀にはイラン方面からササン朝ペルシアの勢力が伸びてきたため、シリアはローマ帝国とササン朝の争奪の対象となったが、間隙をついて隊商都市パルミラが女王ゼノビアのもとで繁栄した。しかしパルミラは272年にローマ帝国の攻撃を受けて破壊された。ローマ帝国の東西分裂後は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の支配を受け、エジプトと並んでその重要な穀倉地帯となった。この間、ネストリウス派と単性派のキリスト教がこの地域に広がった。


イスラム時代編集

7世紀初めにアラビア半島に興ったイスラム教勢力が聖戦(ジハード)を展開して急速に勢力を拡大した。第2代カリフのウマルは636年にシリアに進出し、ヤルムークの戦いでビザンツ帝国のヘラクレイオス1世の軍隊を破って後退させた。

シリア総督としてウマイヤ家が統治、661年にはダマスクスを都としてウマイヤ朝が成立した。750年アッバース朝が成立するとイスラム世界の中心はダマスクスからバグダードに移り、シリアは興亡したいくつかのイスラム王朝の支配を受けた後、11世紀にはエジプトに起こったファティマ朝の支配を受けることになった。しかしまもなく、中央アジアから進出してきたセルジューク朝がシリアに入り、さらにパレスチナも征服、それに対して危機感を強く持ったビザンツ帝国皇帝がローマ教皇に要請して十字軍運動が始まった。

その後はサラディンのアイユーブ朝、バイバルスのマムルーク朝に支配される。モンゴル帝国フレグも侵攻してダマスカスを占領したが、マムルーク朝にエジプトへの侵入を阻止される。フラグはイラン西部のタブリーズを都にイル=ハン国を建国、シリアも支配したが、次第にイスラム化していった。


中世編集

小アジア西部に起こったオスマン帝国が、16世紀にシリアに進出した。古来、交通の要衝にあたっていたので、様々な民族、文明が交錯する地域であった。形式的にはオスマン帝国の一州であるが、実質的にはほぼ独立したシリア総督が統治していた。平野部の大都市ダマスカス、アレッポ、ベイルートなどではアーヤーンと言われる地方名望家が後背地の農村部を支配していたが、中央権力の及ばないレバノン山岳地帯には、イスラム教ドルーズ派とマロン派キリスト教徒(共にアラブ人)などが特異な信仰・慣習をもつ集団が有力家系の下で結束していた。


近代編集

19世紀に入ると、オスマン帝国の無力化が表面化し、イギリスフランスロシアなどのヨーロッパ列強は、西アジアのオスマン領を分割し、勢力下におこうとして互いに争い、いわゆる東方問題が深刻となる。シリアもその対象とされ、分割の危機にさらされ、現在のシリア地域の混迷が始まることとなる。

エジプトのムハンマド・アリーがシリアを支配した時期は短かった(1832~40)が、シリア近代化の転機となり、生糸・繭の生産が増加して商品経済が発展した。

しかし、シリアの内部矛盾はレバノンにおけるイスラーム教ドルーズ派とマロン派キリスト教徒の宗教的対立となって現れ、さらにフランスがマロン派キリスト教徒を支援し、イギリスが対抗上、ドルーズ派と結び、さらにロシアがギリシア正教徒の保護に乗り出すという列強の介入が始まり、国際問題化した。このような外国勢力の進出という危機の中から、シリアのアラブ人マロン派キリスト教徒の中から、「アラブの覚醒」と言われるアラブ文化復興運動が起こった。しかしこれは知識人にしか広まらず、20世紀のアラブナショナリズムに流されていった。


独立編集

フランスの占領地から独立してシリア共和国となるが内戦などで情勢は安定せず、一時エジプトと合併してアラブ連合共和国となった。

現在の体制になったのは1961年の革命であり、以来バアス党ことアラブ社会主義復興党シリア地域指導部が政権を握っている。

一応共和制・大統領制を取るが現大統領のバッシャール・アル=アサドは前任のハーフィズの息子であり、信任選挙はしたもののほぼ独裁選挙であった。


崩壊編集

近年までアサド体制一強であったが、遂に終焉を迎える。

2024年11月27日にウクライナ侵攻パレスチナ・イスラエル戦争の当事者となったことから、支援が手薄になったシリア解放機構を中心とした反政府勢力がアサド政権への大規模な攻勢を開始。

北部の要衝アレッポを8年ぶりに陥落させた後、驚異的なスピードで各地の領土を制圧、12月8日、反体制派が首都ダマスカスの解放を宣言、アサドはダマスカスを脱出。これにより、54年に及ぶアサド政権による独裁体制は終焉を迎えた


情勢編集

政情の不安定な国が多い中東の中では、比較的治安も安定している国であったが、恐怖政治によるものであり、2011年からのシリア争乱と呼ばれる内戦が勃発、市街地や一般市民を標的にした空爆が日常茶飯事。北朝鮮とはハーフィズ時代からの伝統的友好国で、通称「中東の北朝鮮」。

更に、2013年には国内で化学兵器の使用疑惑が浮上、2017年にはアメリカによる空軍基地に対するミサイル攻撃が起こった。


こうした状況から、欧州へ逃れようとする難民が急増。地中海へ小舟で密航してギリシャ経由でドイツなどを目指す者が多いが、荒れる海で転覆して死亡する者も後を絶たず、2015年にカナダに移民した叔母を頼って逃げる途中であった3歳児が死亡した写真はニュースで広く伝えられ多くのインパクトを残した。しかし、欧州諸国も大量の難民を抱えることに難色を示し、特にハンガリーチェコスロバキアは露骨に嫌気を表明している。


ちなみに政権をロシアイラン北朝鮮(露伊朝同盟)、BRICSが支援、反体制派(自由シリア軍)を欧米トルコが支援して対立している。

特にロシアはソビエト時代から強固な関係を築いており、シリアにはロシア海軍が使用する軍港も提供されている。そして2015年10月に、ロシアはシリアにおけるISILの拠点を爆撃したことで両国の関係の強さが改めて証明されることとなった。


2016年にアサド政権は反体制派の拠点アレッポを奪還したのを転機に内戦では優位に立ち支配地域を取り戻し内戦は集結に向かっていたが、2023年トルコ・シリア地震で被害地域が反政府勢力の占領地域だったこともあり被害拡大と混迷に拍車がかかっている。

また内戦が頻発している地帯ではコレラなどの感染症が蔓延しておりWHOからも名指しで問題視された国の一つである。

そのため日本の外務省全域に退避勧告を発令、2012年3月より在シリア大使館を閉鎖、在レバノン大使館に臨時事務所を設営。


しかし、2024年12月、アサド政権の後ろ盾であったロシアがウクライナ侵攻により影響力が低下したことに乗じて反体制派が攻勢を強め、アサドは家族とともに国外脱出。

50年にわたるアサド一族の独裁は終焉を迎えたものの、政権を転覆させた反政府勢力もイスラム過激派クルド人など様々な勢力が複雑に絡み合っているため、政情の回復は前途多難と見られる。


宗教問題編集

シリアにおける宗教は他の中東諸国同様重要なファクターだが、その複雑さは随一と言ってよい。

国民の9割は7割がスンニ派、2割がシーア派)、1割がキリスト教徒となっている。シーア派のうち大半がアラウィー派(全国民の13%)とドゥルーズ派(同3%)という、シーア派の中でも極めて異端とされる宗派、アサドはアラウィー派に属しているため体制の支配層を形成している。

両派は長年スンニ、シーア両派からの激しい差別を受けてきており、中世の神学者イブン・タイミーヤは「彼らを殲滅することは最も神聖な行いの一つ」とまで主張したほどだった。

このため、レバノンでも同様の傾向がみられるがシリアではアラウィー派に寄り添う形でドゥルーズ派だけではなくキリスト教諸派、シーア派諸派が体制に協力的な姿勢をとっている。

ところがそのアサド政権が2024年12月に崩壊、数の論理で行けばスンニ派が優勢になることは確実。一方、スンニ派も決して一枚岩ではなくアラウィー派に協力的な富裕層や軍人もいれば、全人口のうち1割ほどとされるクルド人が独立を狙って北東部を支配するなど、こちらも政情回復の課題となっている。


関連タグ編集

中東 西アジア 地中海 イラク 北朝鮮 パレスチナ イスラエル

オリエント アッシリア メソポタミア

  • アブラハムの宗教ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3宗教を指す言葉。それぞれアブラハムを基としている。
  • ヨナ書⋯神がニネヴェを滅ぼそうとされ、その宣告を伝えにいったヨナの話。ヨナが道中ニネヴェに行くのを拒否して魚に食べられる逸話が有名。

シリアの有名人編集

  • フセイン⋯メッカのシャリーフ。ハーシム家38当主。英のフセインマクマホン協定を結び、オスマンに反旗を翻す。カリフを僭称した事でアラブ諸部族からの反感を買う。ヒジャーズ国を作るがイブンサウードに敗れる。
  • ファイサル⋯フセイン三男。大シリアの復興を夢見たが、サイクスピコ協定でシリアを英仏に分割される。しかしファイサルはフサインマクマホン協定で国王にすると約束されていたので国王になる。
  • アラビアのロレンス
  • ラフィク・シャミ⋯ダマスカス生。代表作は『蝿の乳搾り』。徴兵逃れで1971年ドイツへ亡命。
  • バッシャール・アル・アサド大統領

参考サイト編集

  • 世界史の窓
  • ウィキペディア

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