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背景

古代ローマの属州民として支配されていたユダヤ人は、帝政期に2度にわたる大規模な反乱を起こしたものの失敗。
2度目の反乱鎮圧後、ユダヤ人はエルサレムおよび属州ユダヤから追放されて世界中に離散をし、各地で少数派として生きることを余儀なくされた。
ローマはこの後にユダヤ的な要素を徹底排除し、属州ユダヤの名を廃して「シリア・パレスティナ」とした。パレスティナはユダヤ人と敵対関係にあったペリシテ人を意味する。

以後、ユダヤ人は長きにわたり信仰の保持をしながら、故郷への帰還を夢見ることとなる。

一方パレスチナには、ローマ帝国の衰退と東西分裂後7世紀に勃興したイスラム教勢力が侵入しこれを征服。聖地エルサレムを奪回すべく結成された十字軍の侵攻を受けるも結果としてイスラム教勢力はパレスチナ地方を領有し続け、それはオスマン帝国が瀕死の病人と揶揄されるほど衰退しきった20世紀まで続いた。

19世紀より、諸民族のナショナリズムの興りに影響されハレディム(超正統派)のよく言えば平和主義、悪く言えば消極主義的な態度に業を煮やしたユダヤ人の一部知識人を中心に、パレスチナにユダヤ人の国家を作る運動(シオニズム)が勃興した。
イスラエル建国前までのシオニズムに対するアラブ諸国・諸勢力の指導者は概ね好意的な態度を表明しており、後に長年にわたって敵対関係を続けることになったヨルダンの国王も「違いはあるが、同じ土地と祖国を共有する者同士である」とコメントしている。

三枚舌外交

第一次世界大戦が勃発すると、イギリスはスエズ運河の安全確保をしつつ戦争を有利に進めることを狙ってパレスチナを支配していたオスマン帝国の敵対勢力に外交工作を行った。

有力な企業家が多いユダヤ人には
「戦争が終わったらパレスチナにユダヤ人国家を作っていいよ」
オスマン帝国に支配されているアラブ人には
「戦争が終わったらパレスチナにアラブ人国家を作っていいよ」
同盟国のフランスには
「戦争が終わったらパレスチナを共同統治しよう」

とそれぞれ個別に別の約束をして協力を取り付け、戦争が終わるとどの約束も守れないので全部破り、イギリス領とした。
他方、その約束を信じて多くのユダヤ人が入植すると、先に住んでいたアラブ人との間で摩擦が起き、しばしば死傷者を出す暴力沙汰が起こるようになるなど後の禍の種はすでにばら撒かれていた。

第二次世界大戦後

第二次世界大戦もイギリスは勝利したが、すでに国力を大きく失い植民地どころではなかった。加えてユダヤ人武装勢力によるイギリス兵襲撃事件が多発するほど国力は衰えきり、パレスチナは秩序が乱れてしまったためにイギリスはパレスチナの処遇に関して新しく組織された国際連合に委託することを決定。
この際、新国家建設にあたって国連から査察団が送り込まれたのだが、ユダヤ人が「どうであれ自分たちの国家が建設されるのだから」と全面的に協力したのに対しアラブ人は「元々自分たちの土地だ」と拒否。加えて国際社会はホロコーストによって大量虐殺の被害に遭ったユダヤ人に対して同情的であり、結果人口比と地理的な条件からして明らかにユダヤ人に有利な分配案でパレスチナが分割され、2つの国家を作ることとなった。この時、エルサレムはアブラハムの宗教全ての聖地であるために国連による信託統治が行われると定められた。

しかし、アラブ人と諸国はあくまでもパレスチナにおける単一国家建設にこだわり、ユダヤ人が優勢な地域に関してはその高度な自治権を認めるとしたものの、断った場合は戦争も辞さないと脅しをかけた。
これに対してユダヤ人側は交渉を求めたが、ヨルダン国王は「ユダヤ人の自治区はテルアビブ周辺のみ」とさらに強硬な姿勢に出た。第一次中東戦争勃発時、中東の指導者の中には「ユダヤ人が完全に優位な地」に限っては完全な自治権を確約すると発言する者もいたが、ユダヤ人地区の拡充はほぼ絶望的なうえ人口資源で勝るアラブ人がいずれユダヤ人社会を押しつぶすことは目に明らかであり、この時点でもはや両者が平和裏にそれぞれの国家を建設することは不可能になっていたのだった。

4度の戦争

1948年5月14日にイスラエル国の建国が発表された翌日、これに反発したアラブ諸国がイスラエルに対して宣戦布告をし戦争が勃発(第一次中東戦争)。
イスラエルは、軍事力の非保持を条件に建国を許されていたため各武装組織などと連携して密輸や詐欺まがいの取引で武器弾薬をそろえて応戦する羽目になったが、結果的に勝利。
以降4度にわたる中東戦争の結果イスラエルはアメリカの支援、永続的な係争地としたいソ連の思惑とアラブ諸国のまとまりのなさに助けられ、エルサレムを含め、建国当初よりはるかに広い領土を手に入れ、ここに人工的ながらもユダヤ人による国家がかつての祖先の地パレスチナに根付くことになった。
アラブ諸国もその多くは反イスラエルの立場を崩さずにいたものの、その盟主的存在であったエジプトがやる気のないソ連に見切りをつけ、奪われたシナイ半島の奪還を条件にイスラエルとの和平を進めるとその共同戦線は事実上崩壊した。代わりにパレスチナのアラブ人解放運動の主導権はヤセル・アラファト率いるパレスチナ解放機構(以降PLO)へと移る。アラファトはゲリラ指揮官として、広告塔として非常に優秀な人物で、しばしばヨルダン川西岸に展開するイスラエル軍を撤退させたり、ゲリラ指導者でありながら外国の滞在先には常に高級ホテルに泊まり、イスラエルのスポークスマンが「世界一裕福なテロリスト」と揶揄するほど側近も高級車を乗り回すほど資金集めに巧みであり、イスラエル国内に於けるゲリラ活動を継続・激化させていった。

和平路線

80年代後半以降、終わりの見えない内戦状態に嫌気がさした国内の声に押されたイスラエル政府と、イスラエルという現実を崩壊させることは不可能であると確信したPLOの間で和平の道が模索された。この交渉は当事者同士だけではなくアメリカ、ソ連シリア、ヨルダンといった関係国も関わり時間をかけて行われた。
1994年にヨルダン川西岸と飛び地であるガザ地区にパレスチナ人の国家を樹立する合意がなされ、世界的に和平への期待が高まった。
この時のイスラエル首相イツハク・ラビンは軍人として建国以来幾度もアラブ諸国と戦争をした経験から対PLOとの和平には内心否定的で、時に暴動に対して武力を用いて鎮圧することもしばしばであったものの、同時に現実主義者であり和平の必要性を誰よりも知っていたために感情との板挟みにあっていた。ホワイトハウスの前で、満面の笑顔で握手を求めるアラファトと苦虫を噛み潰したような顔でいやいや応じるラビンの有名な映像はその象徴的光景である。


和平の失敗

しかし、ラビンの行為はパレスチナ地方全てをユダヤ人の土地と見做すイスラエルの右翼勢力から見れば裏切り以外の何物でもなかった。
オスロ合意の翌年、ラビンは極右青年に暗殺され、後任には右派のベンジャミン・ネタニヤフが就いた。ネタニヤフはオスロ合意を破棄することはなかったが最低限の履行しかせず、一向に進まない和平交渉にパレスチナの強硬派は苛立ちを募らせ有効な手段を打てないどころか、汚職や縁故採用が蔓延るようになったPLOの求心力が低下してしまう。
この期に及んでも両者はエルサレム旧市街問題で紛糾し、ビル・クリントンが提示したパレスチナがガザ地区全域とヨルダン川西岸地区の97%に加え、岩のドームを含めた東エルサレムの一部を領有するという案をイスラエル側が呑んだが、東エルサレム全域の領有権に拘るアラファトが拒否するなど、両者の溝は埋まらなかった。
2000年に、当時の首相アリエル・シャロンが武装兵1000人とともにアル=アクサ・モスク(神殿の丘に建てられたモスク)を訪問した。このことがきっかけでパレスチナ自治区内で大規模な暴動が発生し、その後も継続してイスラエル国内で爆破テロが頻発、イスラエル世論は和平路線に失望して右傾化し、多くの国民がパレスチナに対する強硬路線を支持するようになった。


現況

イスラエル

一部左派勢力の中にはパレスチナとの積極的な対話による和平を模索する声があるが、相次いだテロ事件と、それを防ぐためのパレスチナとの間に設けた分離壁によって劇的に安全になった国内情勢に満足した国民の感情もあって思ったような支持を得られていない。右派が運営するイスラエル政府はガザ地区からの入植地撤退こそしたものの、ヨルダン川西岸地域の入植は継続し「イスラエル人が住んでいる」ことを既成事実化し、将来的に重要なヨルダン川西岸地域の一部を併合しようと検討している。

パレスチナ

イスラエルと新国家の建設合意こそなされたものの、パレスチナ自治政府が実効支配する地域は自治区全土の半分に満たない。ヨルダン川西岸においては、主要交通網に検問所が設けられて移動の自由が制限されているために経済の低迷は著しく、1人当たりのGDPはイスラエルの10分の1に満たない。
加えてパレスチナ人の住居はなかなか改修許可が下りず、家族が増えてどうしようもなくなり無断で増改築を行った結果「違法建築である」という名目でイスラエル軍が重機で家を破壊し、土地を奪って入植者に与えるといった状況が顕在化している。
この上、パレスチナの有力政治組織であるファタハ及びハマスの腐敗が深刻化し、自分達の既得権益を損なう恐れからイスラエルに対する強硬な敵対行為および住民に向けた扇動を止められないという悪循環に陥ってしまっている。

アラブ系イスラエル人

イスラエル国内において2割ほどいるアラブ系イスラエル人は、法律上ユダヤ人と変わらない待遇を受けているものの、実際には言語教育や就職面などにおいて差別が存在し、右派のユダヤ人からは二級市民扱いされている。2018年にアラビア語が公用語から外されたのもその一例。
一方で、アラブ系イスラエル人の多くは周辺国よりも政情がはるかに安定しており、良い教育も仕事もありその気になれば宗教を気にしない生活をできるイスラエルの国民であることを受け入れる傾向にある。ことにキリスト教徒やドゥルーズ派のアラブ系は、イスラエルが崩壊しパレスチナ人による国家が建国すると自身が割を食うことを恐れるため、イスラエルに協力的である場合が多い。

パレスチナ問題に対する各国の態度

アメリカ

建国以来一貫してイスラエルを支援してきたが、他方中東が一大産油地であり、ヨーロッパとアジアをつなぐスエズ運河が近場であることなどからイスラエルを支持しつつもその行為をしばしば牽制してきた。特に入植地問題については長年違法であるという立場を崩さず、時に支援の削減をちらつかせながら自制を求めてきた。
ところが、トランプ政権は一気に強硬な親イスラエル路線へとかじ取りを切り、パレスチナから「中立な交渉相手としての立場と信頼を完全に失った」と非難されてしまい中東和平を大きく後退させてしまった。背景には、トランプの娘婿がユダヤ系であることだけではなく政権を支持する福音派の思想、シェールオイルによって中東の安定に特に気を使う必要がなくなったことなどがあげられる。

イギリス

はっきり言って諸悪の根源と言っていい存在だが、ほとんどノータッチ状態。イスラエルもパレスチナも、もはや超大国の面影がないほど衰退したイギリスに中立的な交渉相手としての価値を見出しておらず、もっぱらアメリカを中心に据えた和平交渉が続けられている。イギリスはパレスチナ問題に関連した国連決議においては、総じて棄権票を投じている。

ロシア

アメリカの同盟国であり、シリアやイランと敵対関係にあるイスラエルとは険悪……ということはない。イスラエルにはソ連崩壊後ロシアから移住してきたロシア系ユダヤ人が多く住んでおり、ベンジャミン・ネタニヤフもロシアにルーツを持つ人物である。その縁もあってかイスラエル国内ではロシア語が主要な日公用語として機能していたり、両国首脳も頻繁に会談を取り持つなどしている。

アラブ諸国

「アラブの大義」を原則として掲げパレスチナ人による国家樹立を強く求めてきたが、1994年のオスロ合意以降も全く進まない現状やアラブの春後の自国の政情不安の増大、それに乗じたイラントルコといった地域の異民族大国の台頭を受け、2020年以降アラブ首長国連邦とバーレーンを皮切りに入植地建設停止を条件に国交樹立を行う国が続出している。

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