概要
所属国 | アメリカ合衆国 |
---|---|
出生日(2024年9月時点) | 1946年8月19日(78歳) |
死亡日 | 存命中 |
出生地 | アメリカ合衆国 アーカンソー州ホープ |
死亡地 | 存命中 |
所属政党 | 民主党 |
出身校 | ジョージタウン大学、オックスフォード大学、イェール大学 |
宗教 | |
配偶者 | ヒラリー・ローダム(婚姻期間:1975年10月 - 継続) |
子女 | 1人 |
その他 |
ウィリアム・ジェファーソン・クリントン(英語:William Jefferson Clinton、短縮形名:ビル・クリントン、愛称:ババ、1946年8月19日 - )
は、アメリカ合衆国の政治家。第42代アメリカ合衆国大統領。アメリカの大統領として初めて第2次世界大戦が終結した後に誕生し、平和と好景気を謳歌した時代の大統領であり、退任した時の支持率は68パーセントであるなど高い人気がある。
経歴
初期
1946年8月19日にアーカンソー州ホープにて、ウィリアム・ジェファーソン・ブライス・ジュニアとバージニア・デル・キャシディとの間に誕生する。同年5月に自動車事故で死去した父のウィリアム・ジェファーソン・ブライス・ジュニアと同じ名前が付けられ、ウィリアム・ジェファーソン・ブライス3世と呼ばれた。1968年6月にジョージタウン大学を卒業した後、オックスフォード大学とイェール大学ロースクールを経て、1973年8月にアーカンソー大学の法学教授となった。
政界
1974年11月に実施された中間選挙で連邦下院議員選挙に出馬し、アーカンソー州3区の民主党予備選挙で勝利する。本選挙では1972年6月に発生したウォーターゲート事件による追い風があったものの、共和党のジョン・ポール・ハマーシュミット連邦下院議員に対して52パーセント対48パーセントの僅差で敗北する。1976年11月にアーカンソー州司法長官選挙が実施された時、共和党から立候補者が居なかった事から、本選挙では対立候補が全く居ないままで当選した。
1977年1月から1979年1月までアーカンソー州司法長官を務めた後、1978年11月に州知事選挙で新人同士の戦いを制して初当選を果たし、1979年1月に第40代アーカンソー州知事に就任した。この当時は32歳の若手州知事として話題となり、在任中は州の教育水準を向上させると共に道路の整備などに取り組み、1983年1月から1992年12月まで再び州知事の職務を全うした。
1992年アメリカ合衆国大統領選挙
1992年アメリカ合衆国大統領選挙に民主党から出馬し、副大統領候補にアル・ゴア連邦上院議員を選択した。本選挙では共和党のジョージ・H・W・ブッシュ大統領とダン・クエール副大統領のペアを370人の選挙人を獲得して破り、選挙戦の時は1988年アメリカ合衆国大統領選挙での民主党の大統領候補で、ネガティブ・キャンペーンに敗北したマサチューセッツ州のマイケル・デュカキス州知事(当時)の選挙スタッフを重用して守りを固めた。日本ではこの大統領選挙が実施された時期に、テレビコマーシャルでケネディ大統領と握手したシーンが度々放送された。
大統領
1期目
1993年1月に大統領に就任し、ジミー・カーター以来12年ぶりに民主党の大統領が誕生した。クリントンの左派的な色彩は中道・保守派から批判されて徐々に中道寄りへ修正していったが、1994年11月に中間選挙があった後は政策に一貫性が無い事がしばしば批判の対象になっていた。急進リベラルからは歴代の民主党政権で最も保守的で、保守派からは社会主義者と呼ばれていた。
1996年アメリカ合衆国大統領選挙
1996年アメリカ合衆国大統領選挙では再選を目指して出馬し、副大統領候補は引き続きゴア副大統領とした上で、共和党のボブ・ドール前連邦上院議員とジャック・ケンプ前住宅都市開発長官のペアを379人の選挙人を獲得して破った。この選挙は1944年アメリカ合衆国大統領選挙以来52年ぶりに、民主党の大統領が2期目の任期を全うした初の大統領選挙であった。
2期目
1997年1月に2期目の大統領に就任した後、同月に一般教書演説で最大500万人の子供たちに医療保険を提供する為の新たな取り組みを提案し、同年8月に児童保健法・同月に均衡予算法・同年11月に養子縁組及び安全な家族法・1999年12月に里親養育独立法を成立させた。2001年1月に141件の恩赦と36件の減刑を実施し、同月に2期8年の任期を全うして退任した。
政策
経済
1992年アメリカ合衆国大統領選挙で、外交と安全保障を重視したジョージ・H・W・ブッシュ大統領を「経済こそが問題なのだ、愚か者!」と揶揄したように、当初からクリントノミクスとして経済政策に力を入れる。アメリカ経済の中心を重化学工業からIT・金融に重点を移し、これによってアメリカは戦後2番目に長い好景気となり、インフレの無い経済成長を達成した。
好景気
1996年7月に長い好景気を背景として、ジョージア州アトランタにてアトランタオリンピックを開催した。1994年11月に中間選挙でニュート・ギングリッチ院内幹事が率いる共和党が、上下両院を奪還してからは財政赤字の削減に動き出す。FRB(連邦準備制度理事会)のアラン・グリーンスパン議長からの助言で均衡財政を目指し、財政赤字を解消して2300億ドルの財政黒字を達成した。
教育
学校にパソコンを導入するなどIT教育を推進し、その業界に対する利益を誘導するのに貢献した他にも、就学する前の児童に対する早期教育プログラムの拡大・移民に対する英語教育の充実を図った。後期には強いドル政策を実行し、他の国の通貨に対して高いドルを維持しながら海外からの投資を呼び込んだ。1993年9月にゴア副大統領が提唱した情報スーパーハイウェイ構想を推進し、IT産業の育成とIT化による生産性の向上を推進した。
その他
国民皆保険制度
ファーストレディであるヒラリーが提案した医療保険制度改革を試みたが、民間保険会社や企業などからの反対活動を受けて、この国民皆保険制度を成立させる事は出来なかった。
スキャンダル
1998年1月にモニカ・ルインスキーとの不倫が発覚し、同年12月に弾劾裁判に掛けられる程の事態に陥った。ただし連日のように報道機関がスキャンダルを報じる一方で、好景気に支えられた国民からの支持率は退任に至るまで60パーセント前後を維持していた。1995年11月からルインスキーはクリントンと性的関係を持ち始め、1997年3月までこれが9度に渡って続いた。
外交
外交は得意では無い分野で、自身の政治経験はアーカンソー州での地方政治に限定されており、頼りにするべき民主党に至っては外交に関する人材は不足していた。その外交姿勢は場当たり的だという批判にさらされていたが、政権の後期からは外交に力を入れて中東和平や朝鮮半島問題などに尽力したものの、結局さしたる成果が無いままで時間切れに終わってしまった。
日本
1989年7月から自動車を中心とした貿易摩擦を契機として日米構造協議が実現し、同年9月・同年11月・1990年2月・同年4月・同年6月に協議が開催された。1993年7月に初めて日本を訪問した時に宮沢喜一総理と会談し、ここで日米規制改革及び競争政策イニシアティブに基づく要望書(年次改革要望書)が取り決められ、翌年から毎年10月に提出されるようになった。
政権の2期目からは日本との同盟関係を改善するべく尽力し、特に両国の安全保障に関する問題では概ね伝統的な同盟関係を基軸としながら深化を図った。1995年2月にジョセフ・ナイ国防次官補によって策定されたナイ・イニシアティヴに基づき、冷戦の後に於けるアメリカのアジア・太平洋地域に対する関与を再び定義し、日米同盟をその機軸と位置付けた。1996年6月に日米防衛協力の為の指針を見直し、冷戦の後に於ける両国の同盟関係に対して新たな定義付けを実行した。
中華人民共和国
経済関係に於いては中国に友好的な傾向が強く、1993年5月に今後の主要な貿易相手国として恒久的な最恵国待遇を更新した一方で、同盟関係にある日本に対しては貿易に関する問題で厳格な態度を取った。1996年9月にチャイナゲートと呼ばれる中国共産党から選挙資金を得た疑惑が浮上したが、1997年7月までに政権はそのような事実を証明する証拠はまだ何も無いと判断した。
1998年6月に中国を訪問した時には、江沢民党総書記との会談で「台湾の独立を支持しない・2つの中国と一中一台を支持しない・台湾(中華民国)が国際連合などの国際機関に加盟するのを支持しない」(3つのノー)を表明した。1996年3月に第3次台湾海峡危機が発生した時は、国内法である台湾関係法の優先に準じた対応を取り、中国が台湾を併合するのを阻止する立場を取った。
南北アメリカ
1994年1月にメキシコ・カナダと共に自由貿易圏を形成し、関税の障壁を撤廃するNAFTA(北米自由貿易協定)を発効させた。
家族
1975年10月にアーカンソー州フェイエットビルでヒラリー・ローダムと結婚し、1980年2月に第1子の長女であるチェルシーが誕生した。
余談
- 1976年アメリカ合衆国大統領選挙での民主党の大統領候補であったジミー・カーターの選挙運動に参加した。
- 2000年アメリカ合衆国大統領選挙にアル・ゴア副大統領が出馬するが、この選挙は裁判所の判断を必要とするほどの接戦であった。結果として一般投票では上回るも選挙人獲得数では及ばず、共和党のジョージ・W・ブッシュが勝利した。
- 大統領を退任した後は数々のチャリティー活動に参加し、その後は日本で開催されている世界オピニオンリーダーズサミットに出席し、ワールドメイトの教祖である深見東州や日本と世界各国の政治家と対話し、若い世代に国際政治と世界平和の重要性を伝えた。