ジョージ・ワシントン
じょーじわしんとん
ジョージ・ワシントン(英語:George Washington、1732年2月22日 - 1799年12月14日)は、アメリカ合衆国の政治家、軍人。初代アメリカ合衆国大統領。アメリカ合衆国の独立に大きく寄与したとして、「アメリカ合衆国建国の父」とも呼ばれる。1788年6月に憲法が施行されると共に驚異的な支持を受けて大統領に選出され、自らの威信によって連邦政府の権威を確立するのに貢献した。
初期
1732年2月22日にバージニア植民地のポープズ・クリーク・プランテーションにて、農場経営者の子女として誕生した。1749年7月にカルペパー郡(バージニア植民地)の測量官に就任し、1750年11月まで務めた後は軍事訓練を受けた。1754年2月にロバート・ディンウィディ総督からバージニア連隊の副司令官に任命され、オハイオ川の分岐点でフランスと対峙するように命じられた。
アメリカ独立戦争
1758年7月にバージニア州の州議会議員に就任し、1774年9月にペンシルベニア州フィラデルフィアで開催された大陸会議の代表に指名され、1775年6月に大陸軍の総司令官に任命された。1776年7月に独立戦争でイギリスを打ち破って決定的な勝利へ導き、同月に独立宣言を発表した後、北アメリカ大陸にアメリカ合衆国という世界初の連邦共和国を成立させた。1783年9月にパリ条約が締結されて独立戦争が終結すると、同年12月に士官たちに別れを告げて総司令官を辞任した。
大統領就任直前
1787年5月に憲法制定会議の議長に就任し、連邦派(フェデラリスト)と反連邦派(アンチ・フェデラリスト)の激しく長い討議を纏め上げ、1788年6月にアメリカ合衆国憲法を成立させるまでにこぎつけた。1788年アメリカ合衆国大統領選挙に無所属のままで出馬・当選し、1789年2月にジョン・アダムズが副大統領に選出され、同年4月にそれぞれ大統領・副大統領に就任した。
大統領
1789年4月にアメリカで最初の大統領に就任し、この際に選挙人団の投票でワシントンは支持率が100パーセントという驚異的な支持を獲得しており、これは歴代の大統領で唯一ワシントンが達成した偉業である。しかし本人は大統領の就任にそこまで積極的では無く、就任演説でも「自分は大統領の器では無い。」などと発言する程であった。
政権内では副大統領にジョン・アダムズ、国務長官にトーマス・ジェファーソンなど後に大統領などの要職を務める大物が多数も在籍し、今と違って政党に所属している者が1人も居なかった。これはワシントンが政党政治を「対立の原因になる。」として嫌悪し、「同じ共和主義を信奉する者同士なのだから政党を作るまでも無い。」として政党を結成しなかったからである。
1796年アメリカ合衆国大統領選挙では、3期目の再選を目指して出馬しない意思を表明し、同年9月に引退を表明した際は国民に向けて「政党政治の否定」・「外国に対する不干渉」などを求める挨拶文を残した。1797年3月に2期8年で退任し、大統領の3期目を拒否した事や挨拶文の内容の一部は、後にアメリカの政治制度・外交姿勢を形成する上での手本となっている。
退任後
1797年3月に大統領を退任した後は農園の経営に専念していたが、1798年7月に準戦争が開戦してアメリカとフランスが交戦すると、同月に陸軍中将として軍務に復帰した。大統領を経験した者がアメリカ軍に所属する事例は極めて稀であり、ワシントン以外ではアイゼンハワーだけである。これはフランスとの戦闘に巻き込まれそうになったアメリカ政府が、英雄的存在であるワシントンをフランスに対して威嚇に使おうとしたからだと言われている。
1799年12月14日にバージニア州マウント・バーノンにて、急性喉頭炎と肺炎によって62歳で死去した。リタイア世代にもかかわらず冬の悪天候の中を馬で巡回し、家に戻っても着替えずに濡れたまま過ごした為、体調が急速に悪化したからだと言われている。遺体はマウント・バーノンにある古いワシントン家の金庫室に埋葬され、マウント・バーノンは甥のブッシュロッドが継承した。
子孫
幕末にアメリカに渡った福澤諭吉が現地の人々に「ワシントンの子孫がどうなったのか。」と尋ねても誰も知らなかったので驚いたと言うエピソードはよく知られているが、前で述べたように「ワシントン夫妻には子供が居なかったので、子孫は存在しなかった。」が正解である。
マーサ夫人には前夫との子供がおり、その内の1人が早世すると、残された遺児の姉弟(エレノアとジョージ)はワシントン夫妻によって育てられ、事実上の養子として死後にワシントンの遺産を相続した。ジョージの娘(すなわちマーサ夫人の曾孫)であるメアリー・アンナ・カスティスの夫が南北戦争で南軍を率いたロバート・リー将軍であったが、戦時中に反逆者の財産としてワシントンの遺産であった土地も連邦政府に没収され、その土地が現在ではアーリントン国立墓地の一部になっているという。
軍司令官と政治家の兼業・大統領としての長期政権の機会を自ら拒否するなど、権力の集中・固定化を嫌悪していた。比較的質素な生活を望んでいたようで、既に農園の経営などで一定の富を持っている事から大統領に就任した時に給与を受け取らなかった事もあったが、給与自体は後に議会に要請されて受け取った。これは紀元前6世紀頃の共和制ローマ時代に活躍した伝説的名政治家であるキンキナトゥスを模範としていたからだと言われている。
初期の軍人時代から一貫してインディアンに対して厳格な姿勢を採っており、インディアンの絶滅政策を主導していたが、その徹底ぶりから生存したたインディアン達は「ワシントン」の名を聞くだけで恐怖する程だったという。フリーメイソンリーに入会しており、メソニック内の活動も積極的に行っていた。アメリカの各州に1つずつ存在するメソニックのロッジを統一しようと奔走したが、各大ロッジの棟梁に大反対されて失敗に終わっている。
歴史学者の倉山満氏によると、当時のアメリカは宗主国のイギリスに謀反した元々植民地だった13州が寄せ集まって成立した現在のEUのような連合体の状態であり、それぞれの州が1つの国としての扱いだった。その為1つの国とは言い難く、歴史研究家の間ではしばしばアメリカ連邦と訳される事があると言う。同氏によればジョージ・ワシントンは紛れもなく実在するが、アメリカ連合国初代大統領ジョージ・ワシントンは架空の人物であるとしており、ここで言われるアメリカ連合国初代大統領がポイントである。
上で述べたようにアメリカはまだ1つの国とは言い難く、ジョージ・ワシントンは元々イギリスと対峙した際の13植民地軍の最高司令官であり、独立した後にそのままいわゆる大統領の地位に就任した。しかし13植民地はまだ1つの国とは言えないような状態で、彼はいくつもの国(州)からなる連合体の議長であり、大統領では無いとしている。倉山氏によればアメリカが現在の1つの国としての形となったのは、エイブラハム・リンカーンの代からであるという。