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概要編集

所属国アメリカ合衆国
出生日1890年10月14日
死亡日1969年3月28日(78歳)
出生地アメリカ合衆国 テキサス州デニソン
死亡地アメリカ合衆国 ワシントンD.C.
所属政党共和党
出身校アメリカ陸軍士官学校
宗教
配偶者マミー・アイゼンハワー(婚姻期間:1916年7月 - 1969年3月)
子女2人
その他陸軍の軍人として勤務(1915年6月 - 1953年1月)

ドワイト・デビッド・アイゼンハワー(英語:Dwight David Eisenhower、1890年10月14日 - 1969年3月28日)は、アメリカ合衆国の政治家。第34代アメリカ合衆国大統領。陸軍の軍人から出た政治家であり、アイクの愛称で親しまれた。自身の性格・軍人として戦争の残虐性を実感していた為か、大統領に在任していた期間は全体的にも穏健な政策を内外で展開していた。その一方で積極性に欠ける政策・後任がインパクトの大きいジョン・F・ケネディだった事もあり、近年では「何もしなかった大統領」と評価される事も多い。


経歴編集

初期編集

1890年10月14日にテキサス州デニソンにて、7人兄弟の3番目に誕生する。ドイツ系アメリカ人の家系で、誕生して2年程でカンザス州アビリーンに移住し、高校を卒業するまで同地で過ごした。高校を卒業した後に兄と共に大学への進学を希望するも、経済的理由で困難となった。そこで兄と交互に大学へ通う事になり、最初の年は兄が大学へ通ってアイゼンハワーはバター工場に勤務して学費を稼ぐ事になった。翌年になると兄がもう1年大学へ通いたいと言い出し、アイゼンハワーは再びバター工場で勤務する事にした。そんな中で友人から「軍学校なら学費がかからない。」と言われた事で軍人に興味を持ち、工場を辞めて軍人になる事を決意した。


軍人編集

1915年6月にウェストポイント(陸軍士官学校)を卒業し、1914年7月に開戦した第1次世界大戦ではヨーロッパでの任務の要請を拒否され、代わりにアメリカ軍初の戦車部隊で兵を訓練する部隊を指揮したが、戦線投入される前に終戦を迎える事となった。1935年12月にフィリピン・コモンウェルスの軍事顧問であるダグラス・マッカーサー少将の副官として勤務し、1941年10月に准将にまで昇進した。その後は連合国による北アフリカとイタリアのシチリア島に対する侵攻を指揮し、フランスドイツに対しても同様で、ヨーロッパでの戦争終結時には連合国遠征軍最高司令官の元帥であった。その後はドイツのアメリカ占領地域の軍政長官(1945年5月)・陸軍参謀総長(同年11月から1948年2月)・コロンビア大学学長(同年6月から1953年1月)・NATOの初代最高司令官(1951年4月から1952年5月)を務めた。


1952年アメリカ合衆国大統領選挙編集

1952年アメリカ合衆国大統領選挙に共和党から出馬し、副大統領候補にはリチャード・ニクソン連邦上院議員を選択した。元々大戦が終結した直後から大統領選挙に出馬する事を待望されていたが、本人は政治家になる事に興味は無く、支持している政党が定かでは無い状態だったので実現していなかった。しかし度重なる説得の末に出馬する事となり、共和党の大統領候補に正式指名されたが、その理由について本人は「(出馬した時点で)20年間続いた民主党政権の変化を国が求めたから。」としている。本選挙では民主党のイリノイ州のアドレー・スティーブンソン州知事とジョン・スパークマン連邦上院議員のペアを442人の選挙人を獲得して破った。


大統領編集

1953年1月に大統領に就任し、その前に真珠湾で顧問会議を開催して最初の任期での目標を設定した。1956年アメリカ合衆国大統領選挙ではテキサス州・テネシー州などの伝統的に共和党の勢力が強い州の票を維持し、本選挙では民主党のイリノイ州のアドレー・スティーブンソン前州知事とエステス・キーフォーヴァー連邦上院議員のペアを457人の選挙人を獲得して破った。これによってニクソン副大統領と共に再選を果たし、1961年1月まで2期8年の任期を全うした。


外交編集

大統領時代はアメリカを筆頭とする西側諸国・ソ連を筆頭とする東側諸国の冷戦の最盛期とも言える時代であり、ニクソン副大統領とダレス国務長官は共産主義との戦いを指揮・拡大した。一方で当時のジョセフ・マッカーシーを代表とする共和党右派の過激な反共主義者の煽動も存在したが、ジョージ・ケナンが提唱した封じ込め政策を受け、平和共存と穏健な保守路線を追求した。


内政編集

自身が軍人時代に不便を感じた事がきっかけで整備した国内の幹線道路や、世帯所得の20パーセント増加など一定の成果は上げている。ただし共和党が政府介入の無い経済による自由発展を推す主義・主張だった為、そこまで積極的な政策は打たなかった。


大統領退任後編集

1961年1月に大統領を退任した後は、元帥という階級の性質から軍務に復帰した。しかし実際にはペンシルベニア州ゲティスバーグで農家として隠居生活を送り、死去するまで公の場にもほぼ出る事は無く、1969年1月に自身の政権での副大統領だったニクソンが大統領に就任した時は声明を発表してこれを称賛した。同年3月28日にウォルター・リード陸軍病院で、鬱血性心不全によって78歳で死去し、ワシントン国立大聖堂で国葬が執行された。


人物編集

●カリスマ性には欠けていたが、愛想が良く穏やかな人柄で、人を惹きつけるバランス感覚に優れたリーダーシップを発揮する高い調整能力を持っていた。

それらの能力は元々の彼の性格と共に、副官として人材育成に定評のあるフォックス・コナー少将の薫陶を受け、気難しくカリスマ性を持ち自己演出癖もあるマッカーサーを相手に苦労した経験と、その後は陸軍参謀総長ジョージ・C・マーシャル大将から目をかけられ昇進した事により世に開花したものでもあった。

●アメリカ陸軍有数の戦車通の軍人ではあったが、その職歴は前線よりも後方担当の兵站部や大陸横断自動車輸送隊などに所属していた時期が多く、その経験もあってか兵站を重視した。戦後には連合軍の勝利に貢献したものとして原子爆弾バズーカといった直接兵器以外にジープC-47を挙げている。

だが、ヨーロッパ戦線に派遣された彼の軍事的作戦能力は未知数であった。

そのせいかイギリス首相ウィンストン・チャーチルは連合国遠征軍最高司令官にはマーシャルを希望していたが、彼の能力はアメリカ軍の統合作戦部に不可欠であり、結局はアイゼンハワーが就任する形となった。

だが強烈な個性を持つ国家指導者・上官・部下などを纏める大らかなリーダーシップに優れていたアイゼンハワーの調整能力はソビエト連邦軍のゲオルギー・ジューコフ将軍とも友好関係を築く程であり、その才能こそが海千山千の者達が集う連合国遠征軍最高司令部の最高司令官に求められたものであった。

●大統領時代は無気力で刺激的で無いゴルフ三昧の大統領として批判されたが、米ソ対立を激化させる事無く安定させた。ヨーロッパの植民地主義を支援しなかったが、ヨーロッパ諸国との同盟関係強化、共和党を孤立主義とマッカーシズムから死守、アメリカの景気維持、予算均衡保持、技術革新の促進を行い、更には公民権運動をしぶしぶながらも促進させ、軍産複合体の脅威を警告したとして現在では大統領としての人気では上位にある。

核兵器の使用には極めて慎重な姿勢を貫き、戦時中の日本に対する原子爆弾の投下についても、当時のトルーマン大統領に対して敗戦が濃厚な日本に使用するのを直前まで反対し続けていた。自身が大統領に在任していた時は対共産主義勢力との戦いに苦戦していたインドシナに対し、ニクソン副大統領が核兵器を使用するように提案した事があったが却下している。

ゴルフが趣味で、大統領の任期中も友好関係にある首脳とゴルフに行くなどしていた。

●トランプのコントラクトブリッジをウエストポイント士官学校時代から嗜み、フィリピンに居た折にはフィリピン大統領マヌエル・ケソンと定期的にプレイして「マニラのブリッジの魔術師」との異名を頂き、ノルマンディー上陸までのストレスの溜まる日々にも、大統領に就任しても土曜日の夜にホワイトハウスでブリッジをプレイした。彼の参謀はブリッジが出来る事が暗黙の了解であったという。

●1948年6月にコロンビア大学の学長に就任した折に油絵に興味を持ち、死去するまでの20年間におよそ260点の作品を描いた。


家族編集

1916年7月にマミー・ジュネーブ・ダウドと結婚し、2人の息子が誕生したが、長男のダウド・ドワイト・アイゼンハワーは猩紅熱で3歳で亡くなり、次男のジョン・アイゼンハワーは陸軍に勤務して准将で退役し、作家となった他にも駐ベルギー大使も務めた。


その他編集

軍服のジャケットを改良するよう指示した事があり、これによって袖口と腰が体にフィットした丈の短いジャケットが導入された。後に企業の制服など民間でもこの様式のジャケットが広まり、戦時中アイゼンハワー本人も愛用していた事もあって「アイクジャケットアイゼンハワージャケット)」と呼ばれる服の一形態となった。


先代・次代編集

ハリー・S・トルーマン → ドワイト・D・アイゼンハワー → ジョン・F・ケネディ

関連タグ編集

アメリカ合衆国 アメリカ合衆国大統領 共和党 軍人 アイクジャケット

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