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ダグラス・マッカーサー

だぐらすまっかーさー

ダグラス・マッカーサーとは、アメリカ合衆国の軍人である。生年没年 1880年1月26日~1964年4月5日。
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概要

アメリカ陸軍の軍人。最終階級は元帥

1880年1月26日にアーカンソー州リトルロックで生まれた。父親は南北戦争に従軍し叙勲を受けた事もある軍人で、マッカーサーは基地の中で育った。

1899年に陸軍士官学校に入学し、非常に優秀な成績で卒業してアメリカ合衆国陸軍少尉として入隊した。入隊してからもその優秀ぶりは変わらず、1917年に第一次世界大戦へのアメリカ参戦が決まると、アメリカ全州の州兵を使った師団の創設を当時の大統領ウィルソンに提案し採用された。この師団は、マッカーサーが「虹のように様々な色(風土や性格)を持った兵士が、大西洋を渡りヨーロッパで戦う」と師団を表現した事からウィルソンによりレインボー師団と名付けられ、同大戦で大活躍した。マッカーサー自身も、この師団で参謀長と旅団長として数々の武功を上げ、異例の早さで少将に昇進し士官学校校長となった。その優秀さと信頼度はかなり高かったようで、昇進して数年後にあったアムステルダムオリンピックではアメリカ選手団団長も務めた。そして1930年、アメリカ陸軍史上最年少で参謀総長に就任し、階級も一つ飛び級して大将となった。しかし、在任中は不況対策の一環として軍備を削ろうとした当時の大統領ルーズベルトの政策を「共産主義者の陰謀」と批判してルーズベルトの怒りを買うなど、あまりいい事は無かったようである。

1935年、参謀総長を退任し再び少将となったマッカーサーはフィリピンに軍事顧問として赴任する。これは、当時独立を控えていたフィリピンで独立後に大統領を務める事になる政治家マヌエル・ケソンがマッカーサーと友人で、そのケソンの要請を受けての事だった。この時、ケソンはマッカーサーにフィリピン軍元帥の称号を贈っている。このフィリピンでの生活がよほど気に入ったのか、フィリピンに赴任して2年後にはアメリカ陸軍を退役して生活拠点を完全にフィリピンに移した。

だが、太平洋戦争が迫る1941年7月にルーズベルトの要請で再び陸軍に呼び戻され、招集の翌日付で中将に昇格した。更に同年12月に太平洋戦争が開戦すると大将に昇進し、フィリピンに駐屯するアメリカ軍の司令官となった。なぜ、ルーズベルトが自身を共産主義者(あるいはその手先)呼ばわりしたマッカーサーを呼び戻したのかというと、フィリピンとの交流で東南アジア事情に詳しいマッカーサーの能力をルーズベルトも認めざるを得なかったからである。

しかし、序盤の対日戦は困難を極めた。これは、マッカーサーに人種差別的意識があり、日本人を見下してなめきっていたからだと言われている。そのため、マッカーサーは自軍機が日本軍機に撃墜されても「操縦者は日本の同盟国であるドイツ人パイロットに違いない」と信じ切ってろくな策も打たないどころか、その間違った認識のまま本国に報告を行っていたのである。このような甘い認識から、フィリピン駐屯のアメリカ軍はたちまち窮地に陥り、マッカーサー自身も命の危険にさらされる事態となった。これを受け、本国で英雄になっていたマッカーサーの死で士気が低下する事を恐れたルーズベルトは、マッカーサーをケソン共々オーストラリアへ脱出させるように命じた。これによりマッカーサーはフィリピンから事実上敗走する事になり、自身の軍歴と自尊心に大きな傷がついた。

オーストラリアに脱出した後、マッカーサーは南西太平洋方面連合国軍最高司令官となり、対日戦の劣勢を取り返すため猛攻を仕掛けた。その途中、戦略上必要が無かったフィリピンの奪還を自身のゴリ押しにより上層部に認めさせ見事達成した。これは、前記の苦い敗走経験を払拭するためであったと思われる。フィリピン奪還の直後、マッカーサーは元帥に昇進し、そのまま破竹の勢いで日本軍の陣地を奪取・占領して1945年8月15日に連合国側の勝利で終戦を迎えた。

終戦後、マッカーサーは連合国軍最高司令官総司令部(通称"GHQ”)最高司令官として日本に赴任し、日本が主権回復する1951年まで日本の民主化や復興の指揮を執った。統治中は昭和天皇を日本国民団結の象徴であると考え、東京裁判での訴追回避に尽力するなど日本に一定の配慮を見せており、GHQの要請によるマスコミの積極的な報道も功を奏して日本人からの人気は高かった。

なお、この頃からマッカーサーはアメリカ大統領選に興味を持ちだしており、1948年に予定されていた大統領選を見越して準備を進めていた。そのため、現役軍人がなれない大統領に就くため、本国に日本統治の安定ぶりをアピールし、統治そのものを早く終わらせようと促していた。そして1948年、マッカーサーは共和党から大統領選に出馬すると表明した。この際、日本中の新聞や商店にはマッカーサーの大統領選を応援する広告が掲載され、本国のニューヨーク・タイムズでも有力候補として紹介されるなど、その抜群の知名度により一気に有力候補となった。だが、実際選挙になると党の代表候補選の時点で大敗を喫してしまい、大統領への道は絶たれた。ちなみに、この際マッカーサーらを破った候補も、本選で当時の現職トルーマンに破れている。

こうして大統領選に破れ、再び平穏な日本統治に専念する事になったマッカーサーだったが、1950年に朝鮮戦争が勃発すると再び忙しくなった。それまで、CIAなどを通じ北朝鮮の不穏な動きを報告されていたにも関わらず「朝鮮半島で戦争は起きない」と決めつけてかかり策を講じていなかったマッカーサーは、北朝鮮の南部侵攻の報を受けて大きなショックを受けたといわれている。だが、それを受けて本国から朝鮮半島に展開するアメリカ軍の指揮権を付与されたにも関わらず「北朝鮮の侵攻は一時的な勢いであり、すぐに韓国側が盛り返して沈静化する」と判断してまたしてもろくに手を打たず、物資や現地の自国民を救助する船舶や航空機の手配しか行わなかった。その結果、権限付与の翌日には韓国の首都ソウルが北朝鮮に占領されてしまった。

首都陥落の知らせを聞いたマッカーサーはようやく事の重大さを認識し、直ちに韓国に赴いて当時の韓国大統領李承晩と会見し、前線の兵士達の激励を行った。そして窮地に陥った韓国側を救うべく、占領された仁川への上陸作戦を計画した。だが、この作戦は非常に成功率が低く、マッカーサー本人をもってして「成功率は0.02%」と言わしめるものであった。そのため周囲は作戦に猛反発し、本国の陸海軍幹部やハワイの太平洋艦隊司令官が東京に直談判に現れる程であった。しかし、他に打開策が無かったマッカーサーは作戦を強行し見事成功させたのである。この成功により、韓国側はソウル奪還を達成しマッカーサーは高い人気と名声を得た。

ソウル奪還後、本国のトルーマンは「無駄な北上は中国を刺激する」としてマッカーサーに北上しないよう命令を出していた。しかし、マッカーサーは「中国は戦争に絡んでこない」と考えていたため北上を続け、中国の国境線まで攻め進んだ。その結果、中国が人民解放軍を率いて北朝鮮側として参戦する事態を引き起こし、朝鮮戦争の泥沼化を招いてしまった。このマッカーサーの余計な一手は、戦闘でインフラも無く荒野と化した朝鮮半島に滞在する事を嫌ったマッカーサーが、事あるごとに住み慣れた東京に帰っていたため、現地の戦況を正確に把握していなかった事が原因だとされている。

こうして再び窮地に陥ったマッカーサーは、中華民国と連携した中国への直接攻撃を主張するようになり、ついには攻撃の必要性すら唱えるようになった。これを受けトルーマンは、中国への核攻撃によるソ連参戦とそれに伴う大規模戦闘を危惧し、先の命令無視などもあってマッカーサーの更迭を決定した。更迭の報を受けると、日本の新聞にはマッカーサーへの感謝を綴った広告が並び、マッカーサーが帰国のため車で東京国際空港に向かった際には、沿道に見送りの日本人が約20万人も押し寄せた。

本国に戻ったマッカーサーはそのまま軍からも退き、事務機器メーカーの会長職や名誉職をいくつか歴任した。1952年のアメリカ大統領選では再び出馬を模索したが、高齢のため支持を得られず断念してしまった。

1964年4月5日、老衰によりこの世を去った。葬儀は国葬として執り行われ、日本からは代表として吉田茂が参列した。

語録

マッカーサーは複数の名言を持っている事で有名である。

  • I shall return
日本語訳は「私は必ずここに戻ってくるだろう」。太平洋戦争で日本軍の猛攻によりフィリピンから脱出を余儀なくされた際に言ったとされる言葉である。この後、マッカーサーは実際にフィリピンを奪還した。

  • Old soldiers never die; they just fade away.
日本語訳は「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」。トルーマンから解任され軍を退く際にワシントンD.C.で行った演説での一言。元ネタが有り、マッカーサーが若い頃に軍で流行していた歌の歌詞を引用したものである。意味合いとしては「老兵は戦地に赴き死ぬ事もできない役立たずである。私は今その立場となったから、大人しく軍から消えよう」や「多くの戦いを生き抜いてきた老兵の魂は死ぬ事は無く、この身が滅びても皆さんと共にあるだろう」など解釈が分かれる。だが、演説した場では非常に好評だったのは確かで、マッカーサーを嫌っていた者ですら、その場では喝采を送ったと言われている。

  • Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.
日本語訳は「彼らが戦争を始めた目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだったのです」第二次世界大戦での日本についての発言であり、1951年4月に、トルーマン大統領に司令官を解任されたマッカーサーは、帰国後の5月3日から5日までの3日間、上院軍事外交合同委員会での公聴会の宣誓証言で、上述の証言を公の場で行った。一部の人たちはこの部分を切りとり、「日本は防衛のために戦った」とマッカーサーが証言したと主張するが、全文を簡単に纏めると「日本に資源は少ないので資源が輸入できなくなれば工場が稼働しなくなり、労働者が職を失って治安悪化するので、資源確保して国内を安定させるために奇襲攻撃を仕掛けてきた」という意味であって、間違っても日本の戦争目的を正当化する発言ではない。

血縁関係

イギリスから移民した貴族の一族であるため血縁者に著名人が多く、イギリス首相チャーチルアメリカ合衆国大統領ルーズベルトなどがいる。

関連タグ

アメリカ合衆国 アメリカ軍 元帥 第一次世界大戦 太平洋戦争 朝鮮戦争 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)

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