概要
来歴
誕生より
1880年1月26日、リトルロック(アーカンソー州)で誕生。父・アーサーは南北戦争に従軍し叙勲を受けたこともある軍人で、幼少時のマッカーサーはインディアンと対峙するための砦で育った。母・メアリーは富裕な綿花業者の娘。
1899年の米比戦争で父が義勇軍師団長としてスペイン領フィリピンを攻略、初代フィリピン大統領を生け捕りとしたり、先住民族・モロ族を絶滅させる(「M1911」の記事参照)など活躍。戦後はフィリピンの植民地総督となる。
1899年、ウェストポイント陸軍士官学校に首席で入学するが、上級生達に目を付けれられ「野獣兵舎」で凄惨な虐めを受ける。同期生が虐めで死亡し軍法会議が開かれたが、マッカーサーは最後まで虐めた上級生の名を明かさず、全校生徒から尊敬を勝ち取った。
任官
1903年、陸軍士官学校を首席で卒業、陸軍に少尉として任官。第3工兵大隊所属となり、マッカーサー家が利権を有するフィリピンに配属。
1905年、父が駐日米国大使館付武官となり、マッカーサーもその副官として東京で勤務。日露戦争で活躍した司令官達と面談する機会を得た。
1906年、帰国するとセオドア・ルーズベルト大統領の軍事顧問補佐官に任じられた。
1912年、父が脳卒中で死去。体調不良の母を気遣い異動を申出ると、陸軍参謀総長レオナルド・ウッドが陸軍省にわざわざマッカーサーのために新しい部署を作ってくれた。
1913年、メキシコ革命に干渉するため米国はフランク・F・フレッチャーにベラクルス占領を命じ、マッカーサーも情報収集のため送り込まれた。輸送力不足解消のためメキシコ軍の蒸気機関車を奪取したと主張したが、信頼性に乏しいため議会名誉勲章授与は見送られた。
第一次世界大戦
1917年、第1次世界大戦への米国参戦が決まり選抜徴兵法を制定したが、徴兵された兵士が訓練を終えて戦場に出るまでに1年程掛かるのが問題であった。
マッカーサーは州兵を市民軍としてフランスに派遣する案をウッドロウ・ウィルソン大統領に提出して採用され、どの州の州兵を派遣すべきかについては州兵局長ウィリアム・A・マン准将が「全26州の部隊で編成してはどうか」と述べ、マッカーサーも賛成し「虹の様に様々な色(風土や性格)を持った兵士が、大西洋を渡りヨーロッパで戦う」と師団を表現した。編成された第42師団はレインボー師団と呼ばれ、マッカーサーが2階級特進して大佐となり、参謀長に就任した。
1918年2月、第42師団西部戦線に配属、精鋭部隊歩兵第2師団に次ぐ実績を上げた。マッカーサーは参謀長なのに前線に出たがり、常にヘルメットを被らず軍帽を被り、タートルネックのセーターに母の手編みのマフラー、手には乗馬鞭か杖という伊達者振りを発揮し非常に目立った。2回負傷し、国外からも含めて15個の勲章を受章した。
11月11日、第1次世界大戦が終結。
戦間期
1919年、母校である陸軍士官学校校長に就任。虐めの舞台となっていた「野獣兵舎」を廃止し、スポーツ競技により団結心を養うことに力を入れた。
1922年、フィリピンにマニラ軍管区司令官として着任。元来の社交性を発揮し、フィリピン社会上層部に強い人脈を作る。1925年には米陸軍史上最年少44歳で少将に昇進し、米国本国に転属。
1928年、アムステルダム・オリンピックで米国選手団団長を務めたが、その留守中に妻・ルイーズが複数の男性と浮気をしていたと新聞で報じられる。
翌1929年に離婚が成立。在フィリピン・米陸軍司令官としてフィリピンに赴任、マニュエル・ケソンらフィリピン人エリートとの友情を深めた。
1930年、本国に戻り、ハーバート・フーバー元大統領により米陸軍史上最年少で参謀総長に任ぜられ、階級は1つ飛び級して大将となった。
大恐慌の影響で陸軍予算は削減され、マッカーサーは議会を「平和主義者とその同衾者」と呼んで敵視し、軍隊規模を守ることに必死であった。
1932年に、生活に困窮した退役軍人が恩給前払いを求めてワシントンD.C.に居座る「ボーナスアーミー事件」が発生。フーバー大統領は退役軍人達の解散を待ち切れず、警察と米軍に排除を命令した。マッカーサーはジョージ・パットン少佐の部隊に丸腰の退役軍人らを追い散らさせ、彼らのテント村に放火したため数名の死者と多数の負傷者が生じた。マッカーサーは「革命のエーテルで鼓舞された暴徒を鎮圧した」と記者会見で述べたが非難の声が高まる。沈静化を図るため記事を書いたジャーナリストに名誉棄損の訴訟を起こすが、元愛人への取材でマッカーサーが大統領や陸軍長官などに対して侮辱的な言動をしていたことをつかまれ、訴訟を取り下げて手打ちとした。フーバー大統領はボーナスアーミー事件での不手際や、経済政策の不備により大統領選で歴史的大敗を喫して政界を去った。
1933年、フランクリン・デラノ・ルーズベルトが大統領に就任するが、やはり軍事予算削減方針で、マッカーサーは「共産主義者の陰謀」と批判して怒りを買う。しかし、ルーズベルト大統領が進めるニューディール政策には反対であったが協力している。ルーズベルト大統領もまた、マッカーサーの参謀総長任期を延長している。
1935年、参謀総長を退任し再度少将となったマッカーサーは、破格の条件で大統領予定者マヌエル・ケソンの要請を受け、フィリピンに軍事顧問として赴任する。フィリピンは1946年の独立が決まっており、フィリピン国民による軍が必要であった。同地到着後、母・メアリーが死去。
1936年、未だ存在しないフィリピン陸軍元帥に任命されたが、軍事力整備は資金難により一向に進まなかった。マッカーサー個人は米国資本のフィリピン企業に投資を行い、多額の利益を得ていた。
1937年、陸軍を退官して生活拠点を完全にフィリピンに移し、ジーン・マリー・フェアクロスと再婚した。
第二次世界大戦
1939年、第2次世界大戦が勃発。
1940年、日本軍が仏印に進駐したためルーズベルト大統領は日本の在米資産を凍結、石油禁輸を宣言し日米関係は緊張した。戦争となった場合、フィリピンの現戦力では心許ないため、戦力増強が図られる。
1941年、ルーズベルト大統領は東南アジア事情に詳しいマッカーサー現役復帰を要請。7月26日付で少将として召集、翌日付で中将に昇進し、在フィリピン米軍とフィリピン軍を統合したアメリカ極東陸軍司令官となった。
マッカーサーの友人である米陸軍航空隊司令・ヘンリー・アーノルド少将はB-17のフィリピン集中配備を計画し、他にもA-24、P-40など207機の増援が約束され、マッカーサーは「日本との戦争が始まれば、米海軍は大して必要がなくなる。米国爆撃隊はほとんど単独で勝利の攻勢を展開出来る」と楽観した。
1941年12月8日、日本軍による真珠湾攻撃(真珠湾奇襲)により太平洋戦争開戦。マッカーサーは真珠湾で日本軍が撃退されるものと考えてその報告を待ち、B-17による台湾攻撃を2度も却下し時間を無駄とした。
翌朝、3回目でようやく許可したが、飛行場に並んだ新鋭機は台湾から飛来した日本機の攻撃によりほとんどが地上で破壊された。現場では攻撃を避けるため朝から上空に退避させていたのだが、出撃命令が出て給油のため飛行場に降りたタイミングで日本機が飛来したのであった。
マッカーサーは日本人が飛行機を操縦出来るとは思っていなかったので米国に「ドイツ人パイロットが操縦している」という間違った報告を行っていた。
零戦が長大な航続距離を持つ事はまだ知られておらず、米軍は日本空母がフィリピン近海から攻撃を行ったと考え捜索を続けたが発見できなかった。
12月10日、頼みの航空戦力が序盤で壊滅し、日本軍がルソン島上陸を開始。12月22日にはリンガエン湾から上陸して来た日本軍2個師団をルソン島防衛軍9個師団が迎撃したが、訓練不足で勝負とならず逃走した。
米国極東陸軍はマニラ市を放棄し、1942年1月6日までにバターン半島とコレヒドール島に籠城する。想定外の10万人以上が立て籠ることとなり日本軍は攻略に手こずるが、米国極東陸軍も飢餓に苦しんだ。アメリカ軍首脳はフィリピン救出は不可能と判断する。
マッカーサーは安全なコレヒドール要塞に籠って前線に出てこないため兵士達から「Dugout Doug」と揶揄されていたが、米本国のメディアにより「2ヶ月に渡って日本軍を相手に『善戦』している」と「英雄」に仕立てられ、捕虜となって米軍の士気が低下することを恐れたルーズベルト大統領は、マッカーサーにケソン共々オーストラリアに脱出するよう命じた。
3月11日、マッカーサーは米海軍魚雷艇でミンダナオ島に脱出した。
同月16日、一行はデルモンテ飛行場からB-17に乗込み、オーストラリアに到着。3月20日、アデレード駅に到着すると、マッカーサーは集まった報道陣に「I shall return(私は必ずここに戻ってくるだろう)」と宣言した。
脱出は命令されたものであり敵前逃亡ではなかったが、マッカーサーの軍歴と自尊心に大きな傷が付き、当時、米兵の間では「I shall return」は「敵前逃亡」の意味で使われていた。
脱出後もマッカーサーは全フィリピン防衛指揮権を手放さず、現場状況も分からないまま命令を送り続けた。4月9日にエドワード・P・キング少将、5月6日にジョナサン・ウェインライト少将部隊が降伏、マッカーサーは終生彼らを許さなかった。
マッカーサーは米国史上最も悲惨な敗北を喫した将にもかかわらず、英雄として米国人に熱狂的に支持され、ルーズベルト元大統領は彼に宣伝価値を見出し、議会名誉勲章を授与した。
4月18日、マッカーサーは南西太平洋方面の連合国軍総司令官に就任したが、ほとんど戦力がないことに青ざめた。戦争の先行きを悲観したオーストラリアは国土の大部分を放棄し、南東部の人口密集地だけ守ろうという考えに傾いていたため説得して止めさせ、ニューギニア島を盾にオーストラリア大陸を防衛させるようにした。
5月7日、ロサンゼルスのウェストレイク・パークにマッカーサーの銅像が建てられ、マッカーサー・パークと改名。
6月5日、ミッドウェー海戦で日本軍が主力4空母を失って敗北、米軍が反攻に転ずる。
マッカーサーは日本軍の守備が固いところは攻撃を避け、補給路を断って無力化するのを待ち、脆弱な所を攻撃するという「蛙飛び作戦」を考案。ニューギニアの戦いで日本軍はその思惑にはまり多くの餓死者・病死者を出す。これはフィリピンで損なわれたマッカーサーへの評価を回復した。
1944年春、アメリカ陸軍も海軍もフィリピンへの反攻作戦は戦略上不要と判断し、沖縄や中国本土への攻撃には台湾を拠点とするのが合理的と考えていたが、マッカーサーは自らの面子を守るため国務省や参謀本部、ルーズベルト大統領を非難し、共和党寄りのメディアを利用してアメリカ人に「フィリピン奪還こそが一日も早く戦争に勝利するための方策である」と訴えた。海軍ではマッカーサーと個人的に親しいウィリアム・ハルゼー海軍大将がマッカーサーの主張を支持した。
ルーズベルト元大統領はマッカーサーとニミッツに直接意見を聞いて方針を決めることとし、7月26日に両名をハワイに召喚したが、マッカーサーが精神論を述べ立ててニミッツを圧倒、大統領と2人きりとなると大統領選に絡めて恫喝し、自分の案を認めさせた。
フィリピンは台湾の代わりに戦場となり、マッカーサーは174,000名の兵員を用意する。
10月20日、ほとんど抵抗を受けずレイテ島に上陸したが、日本軍はレイテ島を決戦地として大戦力を投入して来たため、戦争中でも屈指の激戦となった。
マッカーサーはバターン半島籠城時の「Dugout Doug」という揶揄を気にしていたため最前線で指揮をとる事に拘り、何度も命の危機に曝された。
栗田健男中将率いる第1遊撃部隊(第2艦隊基幹:通称栗田艦隊)がサンベルナルジノ海峡を通過し迫っていたが、「ヤキ1カ」に敵機動部隊という電文を受けて反転し危機は去った。マッカーサーの幕僚達は日本軍の陽動に引っ掛かったハルゼーに怒りを露わにしたが、ハルゼーと個人的に親しいマッカーサーは「彼は私の中では未だに勇気ある提督なのである」と怒鳴り付けて黙らせた。
上陸後も中々飛行場整備が捗らない米軍に対して、富永恭次中将率いる第4航空軍が猛攻をかけ、レイテ島の飛行場は火災により煌々と照らされ、地上で多数の米軍機が撃破され、大量の物資・弾薬が爆散、米軍は一時期補給不足に悩まされた。
マッカーサーの司令部兼官舎も何度も空襲され、官舎に爆弾が落とされ、マッカーサーの寝室の隣の部屋に友軍の高射砲弾が飛び込むなどしたが爆弾や砲弾は全て不発であった。日本機の機銃掃射がマッカーサーの頭すれすれを横切ったが、マッカーサーは傷1つ負うことなく、運の太さを見せた。
米軍はレイテ島を確保してフィリピン全土解放の足掛かりとした。日本の軍政の失敗で貧困や飢餓に苦しめられていたフィリピン国民の多くは熱狂的にマッカーサーを歓迎し、積極的に武器を取ってゲリラとなって日本軍と戦った。マッカーサーは回顧録で「日本軍の人的損失と比較すると我が方の損害は少なかった」と述べているが、ゲリラとなったフィリピン人が多数死傷し、また日本軍のゲリラ討伐の巻き添えとなったり、米軍砲爆撃の巻き添えになったりとフィリピン民間人の死者は100万人以上にのぼった。
12月、陸軍元帥に昇進。
1945年4月12日、ルーズベルト大統領が死去。副大統領ハリー・S・トルーマンが大統領に昇格した。これにより陸海軍の日本本土進攻の主導権争いが激化し、マッカーサーは南部九州攻略作戦である「オリンピック作戦」を担うこととなったが、原爆投下とソ連の対日参戦で、日本は8月15日にポツダム宣言を受諾したため、「オリンピック作戦」は開始されることはなく終わった。
トルーマン大統領はマッカーサーを嫌っていたが、本国での圧倒的人気を考慮し連合国軍最高司令官として日本占領を任せることとした。
連合国軍最高司令官
8月30日、マッカーサーは神奈川県厚木旧海軍飛行場に降り立つ。略装でネクタイを付けず、第1ボタンは外したままで、勲章の類は付けず、安物のコーンパイプを咥えていた(普段は高級葉巻を吸っていた)。
日本の降伏受入方には連合軍内でも様々な意見があったが、マッカーサーは東京の地で世界のメディアが注目する中で降伏調印式を行うこととし、9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で行われた。
皇居前の第一生命館を接収、GHQ本部(連合国軍最高司令官総司令部)とした。
トルーマン元大統領からは「天皇と日本政府の統治権はマッカーサーに隷属しており、その権力を思い通りに行使出来る」「我々と日本の関係は条件付のものではなく、無条件降伏に基づいている」「マッカーサーの権力は最高であり、日本側に何の疑念も抱かせてはならぬ」「日本の支配は満足すべき結果が得られれば、日本政府を通じて行われるべきであるが、必要であれば、直接行動しても良い」「出した命令は武力行使も含め必要と思う方法で実施せよ」という空前の権力が与えられていた。
米国議会では昭和天皇を戦争犯罪人として裁く決議案が提出されていたが、マッカーサーは日本国民団結の象徴と考え、「天皇制を廃止して天皇を退位させても占領政策への効果は疑わしい」とし、天皇制維持方向で国務省に意見を提出している。このため、天皇の戦争責任は不問とする方針となった。
最初にマッカーサーが着手したのは日本軍の武装解除であった。内外に700万人の兵力が残存していたが、陸海軍省など既存組織を利用することにより平穏無事に進み、内地の257万名の武装解除は2カ月で完了した。
続いて戦争犯罪人逮捕が行われた。マッカーサーは主義勢力拡大を恐れていたため東京裁判での訴追回避に尽力するなど戦犯に同情的であったが、フィリピン戦に関する訴追には「聖なる義務」と称して熱心で、山下奉文大将と本間雅晴中将については戦争終結前から訴の準備をし、なるべく屈辱的な手段で殺すことを決定しており、明らかな復讐裁判であった。
日本統治においては徹底した報道管制を行い、GHQ発表は全て事実として日本の新聞各紙に報道させ、記事としなければ発行部数を減らすと脅迫し、米兵による暴行事件を報じた朝日新聞は2日に渡り発禁とされた。
9月27日、GHQは「支配者=マッカーサー」であることを日本国民に知らしめるため、昭和天皇との会談を行った。この際の略装でリラックスした長身のマッカーサーと礼服で直立不動の小柄な昭和天皇が写った写真が新聞記事に掲載され、日本国民に敗戦を改めて実感させた (…………とされるが、実際には効果は限定的であり、全国巡幸に際してはマッカーサーの方が「農地改革のための雇われ外国人」扱いされることもあったとか)。内務大臣の山崎巌はこの写真が載った新聞を「畏れ多い」として販売禁止処分にしたが、GHQの反発を招き東久邇宮内閣退陣の原因となった。
ただしこれは、マッカーサーの本意ではなかったらしい。マッカーサーはそもそも服装規定違反の常習犯で、この撮影も他意がなかったとも言われる。また、昭和天皇の潔さに感銘を受けてすらいて、天皇が帰る際は正装に直立で見送ったと言う。
一方、これを機にGHQは「新聞と言論の自由に関する新措置」を指令し、日本政府による検閲を停止させ、GHQが検閲を行うこととし、日本の報道を支配下に置いた。
大統領選出馬
この頃からマッカーサーは米国大統領選に興味を持ち、1948年に予定されていた大統領選を見越して準備を進めていた。現役軍人は大統領になれないため、本国に日本統治の安定振りをアピールし、統治自体を早く終わらせようとしていた。
1948年、マッカーサーは共和党から大統領選に出馬することを表明した。この際、日本中の新聞や商店にはマッカーサーの大統領選を応援する広告が掲載され、本国のニューヨーク・タイムズでも有力候補として紹介されるなど、その抜群の知名度により一気に有力候補となった。
だが、選挙になると党代表候補選でトマス・E・デューイに大敗を喫し、大統領への道は絶たれた。ちなみにデューイ候補も本選で現職大統領ハリー・S・トルーマンに破れている。
朝鮮戦争
再度日本統治に専念することとなったマッカーサーであったが、1950年に朝鮮戦争が勃発する。
マッカーサーはCIAなどから北朝鮮の不穏な動きを報告されていたにもかかわらず「朝鮮半島で戦争は起きない」と決め付けて策を講じておらず、北朝鮮の南部侵攻の報を受けてショックを受けた。
だが、本国から朝鮮半島に展開する米軍指揮権を付与されたにもかかわらず「北朝鮮の侵攻は一時的な勢いであり、直ぐに韓国側が盛り返して沈静化する」と判断してろくに手を打たず、物資や現地の自国民を救助する船舶や航空機手配しか行わなかった。その結果、権限付与の翌日には韓国首都・ソウルが北朝鮮に占領されてしまった。首都陥落の知らせを聞いたマッカーサーはようやく事の重大さを認識し、直ちに韓国に赴いて韓国大統領李承晩と会見、前線兵士達の激励を行った。
窮地に陥った韓国側を救うべく占領された仁川への上陸作戦を計画したが、この作戦はマッカーサーをして「成功率は0.02%」といわしめるものであった。周囲は作戦に反対し、本国の陸海軍幹部やハワイの太平洋艦隊司令官が東京に直談判に現れる程であったが、他に打開策がなかったため作戦を強行し成功させた。この成功により、韓国側はソウル奪還を達成しマッカーサーは高い人気と名声を得た。
奪還後、トルーマン大統領は「無駄な北上は中国を刺激する」として、北上しないよう命令を出していた。しかし、マッカーサーは「中国は戦争に絡んで来ない」と考えて勝手に北上を続け、中国との国境線近くまで攻め進んだ。その結果、中国の義勇軍(実際は人民解放軍)が北朝鮮側に参戦する事態となり、朝鮮戦争泥沼化を招いてしまった。これは、戦闘でインフラもなく荒野と化した朝鮮半島に滞在することを嫌ったマッカーサーが、事あるごとに住み慣れた東京に帰っていたため、現地戦況を正確に把握していなかったことが原因とされている。
再度窮地に陥ったマッカーサーは台湾に逃れた中華民国政府と連携した中国本土への直接攻撃を主張する様になり、遂には満洲への核兵器使用、朝鮮半島への放射性物質散布すら唱える様になった。
トルーマン大統領は中国への核攻撃による旧ソ連参戦とそれに伴う第三次世界大戦を危惧し採用せず、マシュー・バンカー・リッジウェイ中将が国連軍を立ち直らせ、1951年3月に現有兵力により中国軍を38度線まで押し返した。
面目を失ったマッカーサーは文民統制を無視し、3月24日に開いた会見で勝手に中国に最後通牒を叩き付けた。
1951年4月11日深夜、トルーマン大統領は記者会見を開き、マッカーサー解任を発表した。
更迭の報を受けると、日本の新聞にはマッカーサーへの感謝を綴った広告が並び、4月16日、リッジウェイに業務を引き継いで帰国のため、車で羽田空港に向かう沿道には見送りの日本人が約20万人も押し寄せた。
しかし、マッカーサーが帰国する頃にはGHQ検閲も有名無実化しており、その神格化を批判する記事が出始め、5月3日からの米軍基地上院の外交委員会と軍事委員会の合同聴聞会での質疑中の「日本人は12歳」証言などを機に日本国民のマッカーサー熱も冷めて行った。
晩年
4月19日、マッカーサーはアメリカ上下院の合同会議で退任演説を行い、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」と述べた。
4月21日、ニューヨーク・タイムズ紙がウェーク島会談の速記録をすっぱ抜き、「中国参戦はないと自分はいっていない」というマッカーサーの嘘が覆された。
5月3日より上院の外交委員会と軍事委員会の合同聴聞会に出席。共和党がマッカーサーをアゲるための聴聞会でありマッカーサーも弁舌滑らかであった。しかし、ブライアン・マクマーン上院議員から朝鮮戦争での命令無視についてニューヨーク・タイムズの記事を引き合いに出して突っ込まれ、しどろもどろになって失態をさらし、国民的人気は勢いを失った。
1952年のアメリカ大統領選では再び出馬を模索したが、高齢のため支持を得られず断念してしまった。その後、事務機器メーカーの会長職や名誉職をいくつか歴任した。
1964年4月5日、老衰によりこの世を去った。葬儀は国葬として執り行われ、日本から代表として吉田茂が参列した。
人物像
- 人柄は献身的・革新的・礼儀作法がなっており、聡明・大胆・魅惑的と評価されることもあれば、傲慢・変人・横柄・気難しい・伊達者など批判する声もある様に毀誉褒貶が激しく、その中間の評価がないといわれる。
- 人に忠誠心を向けられる事には慣れても、人へ忠誠心を向ける事は慣れていないような態度をとり、部下からは慕われる事は多かったが、反対に上司からは嫌われる事が多く、ルーズベルト、トルーマン両大統領はマッカーサーを独裁者的傾向のある危険人物として嫌っていた。また傲慢さか、それともシャイな性格なのか、自分を慕う部下達とも距離を取っていた。
- マッカーサーはウェストポイント士官学校を首席で卒業し、成績は歴代3位であった。史上最年少でウエストポイント士官学校校長、アメリカ陸軍少将、アメリカ陸軍参謀総長に就任しており、アメリカ陸軍でこれまで5人しかいない元帥の1人で、フィリピン陸軍で元帥となった唯一の人物でもある。これまで2人しかいない大元帥に任じようとする話もあった。
- アジア人に対しては尊大な態度をとった方が感銘を与えるという計算から、執務室のものものしい雰囲気、仰々しい儀式、芝居がかった態度などで自身を演出し、フィリピンでは民衆に感銘を与える事に成功し、これはGHQ最高司令官になった時も日本で行われる事となった。
- フィリピン奪回を目指しレイテ湾に上陸した有名な写真も映像によるアピール効果が大きいとして翌日に撮り直したものであった。彼の副官を務めたドワイト・D・アイゼンハワーはマッカーサーに会った事があるか聞かれた時に「会ったばかりでなく、ワシントンで5年、フィリピンで4年、みっちり演技術を仕込まれましたよ」と答えた。
- 父の副官として日露戦争の英雄である東郷平八郎・大山巌・乃木希典などと会見する機会を得た。そのためか彼等と東京裁判で裁かれる旧日本軍人達を見て、「まるで異なる人種の様である」と失望したが、今村均元大将が巣鴨拘置所でなく部下が戦犯として収容されているマヌス島で服役したいと申し出たのを聞いた時は「日本に来て初めて真の武士道に触れた思いである」と感銘を受け、その申し出を快諾した。
- 母・メアリー・ピンクニー・ハーディ・マッカーサーからの影響は大きかった。
- 医療設備の整わない砦で弟・マルコムが病死したため、メアリーは病的にダグラスに入れ込むようになり、フランスの習慣に則り早死にしないよう8歳までは髪を長くカールさせ、スカートをはかせて育てた。優秀な人間としたい一心で他人に負けない気概を身に着けさせる厳しい教育を施した。
- ダグラスがウエストポイント士官学校に入学すると、メアリーは士官学校を見下ろすクレイニーズ・ホテルのスイーツに移り卒業まで住んでいた。
- 公式行事で皆が妻をエスコートする中、40歳を過ぎても独身であったため母をエスコートしていた。
- 最初の妻となったルイーズ・クロムウェル・ブルックスは金持ちで離婚歴があり、メアリーは結婚を認めず結婚式にも参加しなかった。地味な生活を好むのに対照的なルイーズと結婚したのは己のマザコン傾向への嫌気からメアリーに反抗したという説もある。二人が離婚した際、原因はメアリーとルイーズが述べている。
- 女優・イザベル・ロサリオ・クーパーを愛人とした時はメアリーの目を避けるために彼女を密かに借りたアパートに住まわせて会っていた。
- 1935年、フィリピン軍事顧問に任命され船でフィリピンに向かう途中もメアリーが同乗していた。船内で彼は終生の伴侶となるジーン・マリー・フェアロクスと出会う。ジーンは同じ南部出身であることもあってメアリーの御眼鏡にかなった。だが、メアリーはフィリピンのマニラに到着して1ヶ月後に亡くなり、二人の結婚を見ることはなかった。マッカーサーの落ち込み様は傍から見ても酷く、メアリーが使ったホテルの部屋を1年間そのままにする様に命じた。
- フィリピンでフリーメイソンの会員となっている。
語録
I shall return
- 日本語訳は「私は必ずここに戻って来るであろう」。太平洋戦争で旧日本軍の猛攻によりフィリピンから脱出を余儀なくされた際にいったとされる言葉である。この後、マッカーサーは実際にフィリピンを奪還した。
Old soldiers never die; they just fade away.
- 日本語訳は「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」。1951年4月19日、退任演説での一言。元ネタが有り、マッカーサーが若い頃に軍で流行していた歌の歌詞を引用したものである。意味合いとしては「老兵は戦地に赴き死ぬことも出来ない役立たずである。私は今その立場となったから、大人しく軍から消えよう」や「多くの戦いを生き抜いて来た老兵の魂は死ぬことはなく、この身が滅びても皆と共にあるであろう」など解釈が分かれる。だが、演説した場では非常に好評で、マッカーサーを嫌っていた者ですら、その場では喝采を送った。
Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.
- 日本語訳は「彼らが戦争を始めた目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことであったのです」ともされる。トルーマン大統領に解任されて帰国後、1951年5月3から5日までの上院軍事外交合同委員会での公聴会の宣誓証言で、解任の不当性を訴えるために上述の証言を公の場で行ったものである。
- 「あなた(マッカーサー)が主張した中国を海と空から封鎖すべきという戦略は対日戦を勝利に導いたやり方と同じですね?」という質問に対して、当時の日本の状況を説明したが。その中で「日本に資源は少ないので資源が輸入できなくなれば工場が稼働しなくなり、労働者が職を失って治安悪化するので、資源確保して国内を安定させるために奇襲攻撃を仕掛けてきた」と述べているがそれはマッカーサーの発言の前置きに過ぎず、彼の発言の主旨は、その為に原材料供給拠点をおさえて資源を確保した日本がこちらに莫大な損失を与えて原材料拠点を支配する条約を呑ませようとするのに対して、自分は新しい戦略として其の防衛線を迂回する事を繰り返して被占領国から日本へ繋がる補給路に近づき、フィリピンと沖縄を落とした時には日本を海上封鎖して敗北させた。それには相手の1/3の兵力で、少なく見ても300万はあろう旧日本軍が居ないところを攻撃することで、原材料を得れない彼等を成す術もまい状態に追い詰めて降伏させたというものであった。
- 太平洋戦争での自身の戦略が如何に正しいか、そしてそれと同じ戦略を主張した事が如何に妥当であり、解任が如何に不当かを訴える自画自賛であった。文脈を見る限り日本擁護としてSecurityと発言したとは捉え難く、それが原因でマッカーサーの人気が落ちることもなかった。
縁戚関係
スコットランドから移民した貴族を祖先に持ち、イギリス首相ウィンストン・チャーチル、アメリカ合衆国大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルトなどと縁戚関係にある。
関連タグ
アメリカ合衆国 アメリカ軍 元帥 第一次世界大戦 第二次世界大戦 朝鮮戦争 連合国軍最高司令官総司令部 GHQ
ゴールデンカムイ:31巻の加筆部分に登場
ゴジラ-1.0:実際の映像を流用する形で少しだけ登場