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略歴

陸軍軍人として

1892年(明治25年)1月2日 - 1960年(昭和35年)1月14日。長崎県出身。

父親は医者であったが、富永は軍人の道を選んだ。

陸軍士官学校では成績優秀で陸軍大学に進学したが、教官に東条英機がおり、このときから東條と親しくなる。

陸軍大学卒業後は日本陸軍の中枢で、対ソ連スパイ活動を行ったり、逆の立場で日本陸軍の情報管理体制を強化したりと精力的に活動したが、参謀本部庶務課で高級参謀の人事管理をしていたときに二・二六事件が発生、富永は反乱を扇動していた皇道派の高級将校多数を陸軍から追放することに成功し、皇道派と対立していた統制派のトップであった東條からその仕事ぶりを高く評価された。

その後、ノモンハン事件の敗戦処理のため、参謀本部第1部長に抜擢され、参謀本部組織の立て直しを進めると同時に、敗戦で委縮する日本陸軍に勢いを取り戻させるため、積極的な進攻作戦を計画した。日中戦争アメリカイギリスが中国の蒋介石政権に支援物資を行うルート(いわゆる援蒋ルート)の要衝であった広西省の南寧の攻略作戦を計画、この南寧作戦は大成功し、中国軍に多大な損害を与えて、南寧も占領したが、中国は援蒋ルートを仏印領内を通るルートに変更し、引き続きアメリカなどは支援を継続した。

日本政府はヴィシー政権下のフランスに圧力をかけたが、援蒋ルートは拡大する一方であり、仏印は一触即発の状況となり、小競り合いが絶えなかった。
日本政府はフランスに日本軍による北部仏印への平和的進駐を求め、富永は仏印の植民地政府と交渉のため現地に飛んだが、植民地軍が挑発的な軍事行動を行ったため、参謀本部総長であった東條の指示を無視し、独断専行で現地軍に指示して、北部仏印への武力進駐を断行した。富永を可愛がっていた東條であったが、命令違反はさすがに無視できず、参謀本部第一部長を更迭した。

しかし、自分に慕う取り巻きを重用した東條は、自分が陸軍大臣にまで昇り詰めると、また富永を陸軍中央に呼び戻し、まずは陸軍省人事局長に任じ、次いでは陸軍次官に昇進させて、自分の右腕とした。
富永も東條の期待に応えて的確に補佐するとともに、裏では東條の権力基盤確立のために恣意的な人事を行うなど暗躍した。

そのあと総理大臣にもなり太平洋戦争の開戦を主導した東條は、戦局の悪化により戦争指導の強化を図るため、自分に陸軍の権限を集中させるべきと考えて、総理大臣、陸軍大臣、参謀総長を兼務すると主張した。当然軍内外から反対されたが、富永は裏で暗躍し反対意見を封殺していき、最後には参謀総長であった杉山元元帥を東條との直接交渉の席に引きずり出すことに成功し、昭和天皇の同意を取り付けていた東條は杉山に辞任を承諾させて、目論見通り空前の権力を手中にできた。

これが、東條と富永ら東條一派の絶頂期となったが、東條に権力を集中させても戦局は悪化する一方であった。この頃の富永は東條と懇意なことを笠に着て威張り散らして「東條の腰巾着」などと評判が悪かった一方で、部下を信用して重要な仕事を任せるなど、人事関係の業務に永年携わっていたこともあり、人心掌握には定評もあった。富永が部下の進言を採用してその実現を一任したこととしては、「戦争未亡人の生活保障」や「陸海軍一体化構想」や「松代大本営の建設」などがあった。重要な仕事を一任された部下の参謀は「親近感と尊敬の気持ちを持ち何でも気軽に話せた」という印象を持ち、また日本陸軍最後の人事局長となった額田坦は富永の部下として働いたことで大変啓蒙を受けて、のちのキャリアに大変役立ったと述べている。ちなみにガダルカナル島の戦いで失態をしでかした「作戦の神様」こと大本営高級参謀辻政信中佐について、富永と額田が協議の結果、参謀を罷免して閑職に更迭している。

やがてサイパンが陥落し、日本本土が危険に曝されるようになると、その責任論が沸き上がり、空前の権力を手中にしていた東條へのバッシングが激化、退陣に追い込まれた。富永は東條の地位を守るため、元老を脅迫するなど暗躍したが、流れに抗することは最早不可能であり、東條を守ることはできなかった。

東條に失脚させられていた杉山ら陸軍の有力者が中枢に返り咲くと、東條一派への粛清人事が断行させられたが、富永に屈辱を味わされていた杉山は、報復のためにその人事を富永に命じた。富永は杉山らの指示に従って陸軍中枢にいた東條一派を次々と外地の閑職に更迭した。そのなかには東條の側近中の側近木村兵太郎大将もおり、木村をインパール作戦の失敗で大打撃を被っていたビルマ方面軍司令官に放逐したが、前ビルマ方面軍司令官河辺正三大将の更迭と一緒に、東條の意向もあってインパール作戦を断行した第15軍司令官牟田口廉也中将も同時に軍司令官を罷免する人事案を杉山に進言して承認されている。

やがて、陸軍中枢から東條一派が一掃されると、最後に富永本人も更迭され、フィリピンに展開する第4航空軍の司令官に任じられた。富永は歩兵連隊指揮官の経験はあったが航空には素人であってこの人事は昭和天皇も心配したほどであったが、この人事を主導した杉山は、ニューギニアから敗戦続きでフィリピンまで敗走してきた第4航空軍を立て直すためには、陸軍中央や海軍ともパイプが強い富永が適任であると主張し「これは名人事」と自画自賛していたという。
しかし、本音はアメリカ軍侵攻が迫るフィリピンで第4航空軍に死守を命じ、富永に軍と運命を共にさせようという意図があったとされる。

第4航空軍司令官として

第4航空軍の司令官としてフィリピンに着任。
第4航空軍参謀たちは敗戦続きで士気もモラルも低下しており、夜な夜なマニラ市内の料亭やクラブで入り浸っていたが、下戸で酒は飲まず煙草も吸わない富永はそのような参謀たちの様子を見て危機感を抱き、着任早々「自分は毎日早朝5:30に司令部に出勤する」と告げている。司令官が5:30に出勤するということは参謀はその前には準備していないといけないことから、当然に夜遊びはできなくなるため、参謀は「戦闘が始まれば夜も昼もなくなります。まだごゆっくりなされててください」と申し出た。フィリピン近隣のパラオ諸島には既にアメリカ軍が侵攻し、フィリピンにも空襲が開始されていたのに、あまりの参謀の危機感のなさに激怒した富永は「お前らはたるんでいる。こんなことだから負け続けるんだ」と一喝し、参謀に危機感を植え付けた。

やがてアメリカ軍がレイテ島に進攻し、レイテ島の戦いが開始されたが、富永は航空にはズブの素人ながら、積極果敢な攻めの作戦指導を行い、まだまともな飛行場が確保できていないアメリカ軍は第4航空軍の猛攻に大損害を被った。総司令官のダグラス・マッカーサー元帥が居住する司令部兼住居も第4航空軍に爆撃されて、何度もマッカーサーは命の危険に曝された。万朶隊を始めとした特攻機を次々と出撃させ多数のアメリカ軍艦船を撃沈破したり、地上で一度にアメリカ軍戦闘機を100機以上撃破するという大戦果を挙げたり、多号作戦の護衛任務でレイテに大量の兵員や物資の揚陸に成功するなど、一時期はレイテ島の制空権を確保していたが、やがてアメリカ軍の体制が整うと、戦力差もあって、第4航空軍はじり貧となっていった。

参謀たちに対しては、ときには鞭で殴打するなど厳しく接して煙たがられることの多かった富永であったが、最高司令官にもかかわらず、空襲になると高射砲陣地に陣取って敵機の銃爆撃のなかで対空射撃の陣頭指揮を執るなど勇ましいところを見せたり、敵機の空襲中なのに危険をおかして基地を巡って激励に訪れたり、戦傷で入院しているパイロットを見舞ったり、功績を自分の目で確認すると大盤振る舞いで特進させたり、プレゼントを送ったり、自分の弁当を将兵に食べさせる代わりに自分は不味い兵食を兵士らと一緒に食べたり、地上で苦戦する地上軍のために周囲の反対を押し切って、作戦機で補給物資の空輸を行うなど、多少オーバーアクション的な対応が好評を博し、航空兵ら将兵たちの評判はむしろ高かった。厳しく接した参謀のなかでも、自ら作戦機に搭乗して、艦船攻撃を指揮し、敵機に撃墜されて戦死した参謀の石川康知中佐に対しては、「高潔、慧敏、春風人に接して内秋霜の気節を包み、航空界稀に見る逸材」と称賛して感状を授与するなど、参謀ら高級士官に対しても、単に厳しく接しただけでなく、航空兵ら将兵と同様に、軍人として相応しい行動に対してはきちんと評価している。

特に特攻隊員には気を使っており、日本本土から特攻隊員がフィリピンに到着すると、一人一人に労いの言葉をかけ、軍司令官官舎に宿泊させて歓待していた。
補給も途絶えて軍司令部もまともな食料がないなかで、特攻隊員には豪勢な食事を準備させた。特に最前線では珍しい刺身が特攻隊員を喜ばせた。
また出撃時には雨が降ってずぶ濡れになるのも構わずに見送りに来て、いつも司令官車に積んである日本酒をふるまって、涙を浮かべながら一人一人の手を固く握って送り出した。

無題


新聞記者が特攻隊員と飲み会すると特攻隊員は口々に「参謀は信用できんが富永司令官は俺たちのことをわかってくれる」と話していたという。富永は何度も特攻出撃した「不死身の特攻兵」として有名な佐々木友次伍長も気にかけており、帰ってくるたびに「よく帰ってきた」「無駄死にはするな」「がんばれ、がんばれ」などと声かけをし、佐々木が何度も帰ってくることを容認していた。佐々木の方も軍司令官に気にかけてもらっていると感じ、富永を慕っていた。

富永は、自分の特攻隊員への想いを、親しくしていた新聞記者に語ったことがあるが、それによると「自分は若い兵士たちを死地に送り込むことが任務である」「死んでから感謝して何になる、兵士が生きているうちに励まさないと」「しかし任務とはいえ若い兵士たちを死なせるのは本当につらい」と涙を浮かべながら述べていたという。やがて特攻隊員を送り出す精神的な負担が富永の心身を蝕んでいくこととなる。

前線からの無断撤退

フィリピンの戦いで第4航空軍は特攻でアメリカ軍に大損害を与えるも、航空機を使い果たしてしまった。富永は、後から続くと言って出撃させた特攻隊員に申し訳ない、マニラを死守して討ち死にすると主張していたが、アメリカ軍がルソン島に上陸すると最前線のフィリピンから、大本営など上部組織の承認がない敵前逃亡に等しい無断撤退をしてしまった。

この無断撤退に至った経緯は下記の通りである。

  1. 大本営など陸軍中央は富永と第4航空軍をフィリピンで玉砕させようと考えていた。
  2. しかし、現地の南方軍や第14方面軍などからは富永に対し、前線のフィリピンから撤退し、後方の台湾で戦力を立て直した方がいいとする助言が寄せられていた。
  3. この頃の富永は、特攻隊の見送りによる精神的な負担ですっかり精神に変調をきたしており「鳥の鳴き声がうるさいから全部打ち落とせ」などと無茶振りをするような有り様で、またデング熱を発症して40°の高熱に苦しめられていたなど心身ともに限界に達していた。
  4. 心身ともに限界であった富永は、何度も大本営や南方軍に健康を理由に軍司令官の辞任を申し出ていたが、受理されることはなかった。そのようななかで、次第に富永も弱気となり、航空戦力もない第4航空軍が慣れない地上戦を戦って玉砕するよりも、戦力を立て直したいという考えに変わってきていた。
  5. 参謀たちも、航空軍が航空機もなく山に籠って抗戦しても無駄死にであって、台湾に一度撤退して戦力を立て直すべきと考えていた。そこで軍司令官を騙して台湾に出張名目で送り出して既成事実を作り、その後に自分たちも脱出して大本営などから撤退の追認をもらえばいいという結論に至った。
  6. 参謀たちは弱っている富永なら容易に丸め込めるし、もし富永が脱出飛行中に敵機に撃墜されても、それはそれで構わないとも考えた。

以上の通り、結果的に富永と参謀は同じ考えとなっており、富永は参謀長から「大本営から台湾への後退の命令が来た」という虚偽報告があったので、信じたふりをして撤退した
……というのが真相である。

参謀長は日本に帰国後「第4航空軍の不評は全く私のいたらぬためです。殊にあの立派な、しかも当時、心身ともに過労の極にあった富永軍司令官に対して、とかくケチをつける者があると聞き深く呵責の念に堪えない」「司令官は自ら最終的にレイテに突入することを決めておられた。ところがそれを妨げて、軍司令官に生き恥をかかせたのは実にこの私です」と人事局に報告しており、虚偽報告をしたことを認めている。

IJA 独立第49飛行隊 キ51九九式襲撃機


フィリピンからの脱出のため参謀は百式司偵二式複座戦闘機という証言もあり)を準備した。高熱でフラフラしていた富永は1人で搭乗することができず、参謀らが富永の身体を支えて、後部席に押し込んでいる。しかし百式司偵は離陸に失敗して大破したため、急遽九九式襲撃機が2機準備され、またもや富永は参謀らに後部席に押し込まれた。もう1機には副官が乗り込んだが、軍司令官の脱出であるのに、護衛機はわずか一式戦闘機2機だけであった。

4機の編隊は台湾に向けて飛行したが、途中のバシー海峡で天候が悪化したため、一旦フィリピンに引き返した。翌日に護衛を4機に増やしてフィリピンを発ち、無事に台湾に到着した。富永は護衛の航空兵に涙を流しながら感謝の握手をしたが、あまりにもやつれはててしょぼくれた富永の姿を見て航空兵は愕然としている。

その後

台湾への撤退は、大本営や直属の第14方面軍から簡単に追認されるという富永らの目論見が外れて大問題となり「敵前逃亡」扱いされてしまうことになった。
第4航空軍が属する第14方面軍司令官の山下奉文大将は、合理的には第4航空軍の台湾への撤退はやむを得ないと考えてはいたが、正式な許可も取らずに独断専行した富永に激怒し、富永ら第4航空軍司令部は各方面への弁明に追われることとなった。

富永はフィリピンに取り残された航空兵や整備兵など専門技術を持った第4航空軍の将兵を救出するため、太平洋戦争でも最大規模の空輸作戦を命じ、あらゆる作戦機を投入して多数の将兵がフィリピンから救出された。
しかし、残りの多くの一般の地上要員たちはそのままフィリピンに取り残された。取り残された将兵たちは、密かに替え歌を作るなどして富永を蔑んだが、地上部隊に編入されて終戦までに戦闘や飢餓や病気で多数が帰らぬ人となっている。

富永はその後台湾で静養したこともあって心身ともに回復したが、今さら富永をフィリピンに戻しても仕方がないという陸軍中央の判断もあって、敵前逃亡に等しい独断での撤退は追認されたものの、さすがに現役にはとどまれず、予備役行きとなった。
しかし本土決戦準備による根こそぎ動員の師団濫造で師団長ができる階級の将官が不足したために急遽現役復帰させられ、根こそぎ動員師団の師団長に(軍司令官から根こそぎ動員師団師団長であり明確な降格)。富永の師団は満州に送られたが、ソ連軍と戦闘前に終戦となったのでそのままソ連軍の捕虜となった。

富永は陸軍中央で対ソ連謀略に関わっていたこともあり、モスクワに連行されて6年間も厳しく尋問された。
軍事裁判で死刑が求刑されたが、強制労働75年の判決が出て、シベリア強制収容所に送られた。富永が送られた収容所はもっとも過酷なところであり、厳しい労働で多数の死者が出たが、富永は将官であったのにも関わらず、一般の兵士と全く同じ強制労働をさせられ、看守のソ連軍兵士から暴行を受けることもあったという。
あまりにも過酷な状況であったので、富永は脳溢血を発症、一命はとりとめたが労働は困難になったので、釈放されることとなった。

日本に帰国したときには満足に歩行できないほど衰弱していたが、帰国後は敵前逃亡に等しい無断撤退などでマスコミや第4航空軍生存者たちからバッシングを受けた。しかし、陸軍兵学校の同期や可愛がっていた特攻隊員の生き残りや遺族などからは擁護する声も多く論争を巻き起こした。
本人はそんな論争をよそに、シベリアに残された抑留者の開放を各方面に呼びかける運動をしたのちは「敗軍の将は兵を語らず」として積極的に反論することもなく、5年後に心臓衰弱のため死去した。


評価

人物評

戦闘中の前線からの無断撤退という大スキャンダルを起こしたせいもあって、とにかく評価の低い人物である。太平洋戦争期の大日本帝国陸軍軍人は全般的に評価が低いが、そのなかでも、南方軍総司令官寺内寿一大将とインパール作戦での牟田口とあわせて「陸の三馬鹿」と揶揄されるなど、最低レベルの評価となっている。

しかし、その評価の元になった事象が、軍に批判的だった作家高木俊朗の戦記小説で記述されたフィクション交じりのものも多く、またその記述が面白おかしく誇張されて広まってしまったことから実像以上に悪者にされている気の毒な人でもある。

実際に富永を知っている人の富永に対する人物評としては、昭和天皇が富永のことを「兎角評判の良くない且部下の抑えのきかない者」と酷評しているなど厳しい評価もある一方で、フィリピンで富永の指揮下で戦った第16飛行団長新藤常右衛門中佐は「カミソリという異名を持つほど頭脳明晰ではあるが癇癪持ち」という噂を聞いていたものの、実際に指揮下になってみると「人懐っこい好々爺といった感じで親しみやすい」と感じ、陸軍次官であった富永に仕え、のちに宮城事件にも関わった井田正孝少佐は「親近感と尊敬の気持ちを持つようになり、この人になら何でも気安く話せる」という評価であった。第4航空軍の参謀たちには厳しく接したこともあって、人間関係は最悪であったが、それでも参謀は富永の能力は認めており「富永閣下は、決断の早い人だ、今のフィリピンには決断の速さが必要なのだ」と評している。

また、フィリピン戦では特に航空兵を手厚く処遇したことから、特攻隊員を始めとする多くの航空兵に慕われていた。富永は敵機の空襲にも構わずに基地を激励に回っていたことから、航空兵たちが心配して富永の副官に「なるべく危険がない時間に回るように」と富永に進言してはどうか?と投げかけたが、富永はその進言を聞いても、「司令部にいるより前線基地の指揮所にいる方が気が休まる」と言い前線基地巡りを止めずに激励を続けて航空兵たちを感激させている。
ある日、富永が激励に訪れていた基地に敵機の空襲があったが、敵機が去ったのち、地上で待機していた四式戦闘機が撃破されてしまったことを咎めることもなく指揮官に「戦闘だからこういうこともある、機体は補充してやるから心配するな」と優しく語りかけて指揮官を感動させている。そういう富永を見てある航空兵は「閣下ともなる人は、なんと優しく親切で、立派な人柄なんだろう」と感じたという。

富永は歴史や文学などへの知識も深かったことから、富永と親交のあった新聞記者は「元来繊細な、軍人というより文化人的な神経の持ち主」と評している。またフィリピンで第4航空軍付記者として富永を間近で取材していた記者は、戦後に面白おかしく誇張された事象でバッシングされている富永を見て「真相というものは大方あやふやなものであって、必ずしも事実そのものではない」と指摘して、当時の詳しい状況を雑誌に寄稿したこともあった。

軍人としての評価

航空作戦の指揮能力についても、富永は参謀をあまり信用しておらずに「幕僚統率はやらぬ」として、司令官自ら作戦指揮をしていたが、「航空には素人同然であった」という事実により「無能」と評されることが多い。

しかし、レイテ戦の初期は戦力的には劣勢であったにも関わらず、富永の積極的な作戦指導により第4航空軍は一時的ではあったがレイテ島の制空権を確保しており、司令官のマッカーサーもいたアメリカ軍司令部も何回となく爆撃している。命の危機に晒されたマッカーサーは「連合軍の拠点がこれほど激しく、継続的に、効果的な日本軍の空襲にさらされたことはかつてなかった」と第4航空軍の作戦を評価し、またその副官チャールズ・ウィロビー准将も「構想において素晴らしく、規模において雄大なものであり、マッカーサーの軍が最大の危機に瀕した」と評している。アメリカ陸軍の公式戦史でも「太平洋における連合軍の反攻開始以来、こんなに多く、しかも長期間に渡り、アメリカ軍が空からの攻撃にさらされたのはこの時が初めてであった」と総括しているなど、現代日本国内の評価とは異なり総じて富永の作戦を高く評価している。また、富永の人物面を酷評し、第4航空軍司令官任命に懐疑的であった昭和天皇も、レイテ戦初期の富永の采配を「第4航空軍はよく奮闘している」と褒めている。

富永は敵機の空襲のなかでも前線の基地に出向き、航空兵を激励し自ら陣頭指揮をとっていた。これを「軍司令官のすることではない」「後方で作戦指揮をとるべきであった」と批判されることもある。しかし、航空兵の当時の証言では、軍司令官が直接激励してくれ、ときには活躍に応じて階級の特進や贈り物をしてくれるので大変に士気が上がったという証言も多くい。
また、アメリカ軍のフィリピン戦での空の戦いを指揮した第5空軍司令官ジョージ・ケニー少将も、自ら最前線の飛行場に常駐して、飛行場整備の陣頭指揮をとるなど、富永と同様に最前線で指揮をとりアメリカ軍を勝利に導いており、この富永への批判は的はずれと言える。

特攻については、特攻という作戦自体に対して否定的・批判的な意見が多いことから、その特攻を指揮した富永個人に対してそのまま批判が浴びせられている。しかし、特攻についても痛撃を被ったアメリカ軍の評価は総じて高く、マッカーサーやチェスター・ニミッツといった軍の高官や軍の公式戦史などは「日本軍は特攻機という恐るべき兵器を開発した。日本航空部隊がその消耗に耐えられる限り、アメリカ海軍が日本に近づくにつれて大損害を予期せねばならない」「特攻機という攻撃兵力はいまや連合軍の侵攻を粉砕し撃退するために、長い間考え抜いた方法を実際に発見したかのように見え始めた」「カミカゼが本格的に姿を現した。この恐るべき出現は、連合軍の海軍指揮官たちをかなりの不安に陥れ、連合国海軍の艦艇が至るところで撃破された」とフィリピン戦での特攻作戦を評価している。

無断撤退についての評価

敵前逃亡に等しい無断撤退については当然ながら厳しい評価が多い。
富永バッシングの急先鋒である作家の高木俊明は「富永軍司令官は詭計をもって逃げ去った」「はじめに美名あり、終りは無恥と無責任であった。これが富永軍司令官の正体であった」と酷評している。また同じ軍人である第6飛行師団神直道中佐も「世界戦史上稀に見る怯懦の史実であり未曾有の喜劇であろう」富永を含む第4航空軍司令部を激しく批判している。
他にも軍事評論家や当時の記者たちから「今度の戦争ほど、上級軍人が汚名をさらしたこともめずらしい」「脱出して後から諒解を求めようとしたのであろうが、それがいかに参謀が考えたことであっても、司令官の富永に全責任がある」と批判している。

当然ながら、フィリピンに取り残されて死線を彷徨った第4航空軍地上要員の生存者からの評価は最悪であり、富永に次いでフィリピンを脱出した第4航空軍幕僚を乗せた航空機が、台湾で海軍の高角砲に同士討ちで撃墜され、参謀ら幕僚多数が死亡したが、その知らせを聞いた将兵たちは「ざまぁ見ろ」と歓声をあげたという。また、将兵たちは「若鷹の歌(予科練の歌)」の歌詞を変えて「命惜しさに、富永が台湾に逃げた。その後にゃ今日も飛ぶ飛ぶロッキード、でっかい爆弾に 身が縮む」という替え歌を作って富永を侮蔑した。またどうにか生き残り日本に帰れた生存者たちは戦友会などで集まると「富永を連れてきて殺そうか」などと物騒なことを言って気勢をあげていたという。

しかし、当時の富永が心身的に病んでいたことを知っていた軍や報道関係者からは同情する意見もあり、富永と陸軍士官学校から同期生で、富永にフィリピンからの撤退を提案し、後の東京裁判で死刑となった第14方面軍参謀長武藤章中将は「当時の戦況でことに燃料、弾薬の乏しかったカガヤン河谷に、航空軍司令部が固着しているのは意味がない。速やかに台湾に移って作戦の自由を得る方が適当であり、私が富永に勧めた」と擁護している。また作家の山岡荘八も「富永中将だけを責めようとは思わない。中将は病気のために判断を誤ったのか、一時でも早く空軍を再建しなければとするあせりと病気が重なって、参謀たちに無理に台湾行きの機体に担ぎ込まれた」と著書に記述している。当時第4航空軍を取材していた記者たちは「当時の四空軍の参謀は航空軍の特権意識が強かった。彼らは自分たちが後退するのに、軍司令官を置き去りにはできないので、心身ともに病んでいた富永に強請して、台湾行きを納得させたと、自分たち記者は一致して考えていた」と参謀らが主導したと述べている。

富永は当時のことを振り返り「戦場における勘の鋭さがなく」「幼稚な観察眼だと笑われても一言もない」「私の不徳、私の連携の不十分の致すところ」と自分には指揮能力はなかったとするとともに、無断撤退については「皆、私の不徳不敏のいたすところでございまして、私としては、この敗軍の将たる私が、別に私から御説明申すことは一言もなく、ただすべて私の不徳不敏のいたすところ」「みな私の至らぬ不敏不徳の結果でございまして、いかなる悪評をこうむりましても、私としては何の申し上げようもございません」「私は一身をもってこの責任を負いまして、すべての悪評はすべて一身に存することを覚悟いたしております」「周囲の者に何らの罪もなければ、何らの責任もなく、すべて私が負うべき責任でございます」と述べており、すべての責任は自分にあったとしている。

余談

  • 下半身ネタについて

ダメ軍人との評価を強調するためか、富永が芸者を愛人にしていたとか、慰安婦をいつも側に置いていたとか、女性にだらしなかったと書かれることが多い。
しかし、実際には、フィリピンで第四航空軍を取材し、富永の軍司令官官舎で寝起きを共にしていた読売新聞辻本芳雄記者(のちに同新聞社会部長)によれば、煙草も酒もやらず、夜を一人で静かに過ごすことが多かった富永は、毎晩辻本を呼んで話し込んでいたということで、愛人や慰安婦と過ごしていたという事実は確認できない。
このような濡れ衣を着せられたのは、富永が健康を害したのち、看護をしていた日本赤十字社の従軍看護婦を慰安婦と勘違いした兵士がデマを広げたり、また、マニラで営業していた陸軍ご用達の料亭『廣松』が富永ら第4航空軍専属の料亭で、富永らが芸者を愛人として囲っていたとか事実ではないことを、戦後の「暴露」ブームのなかで面白おかしく雑誌や戦記に書かれたからであった。どうにか日本に生還した料亭『廣松』の女将が戦後に語ったことによれば、料亭『廣松』は第14方面軍の管理下であり、女将を始め芸者たちは、自分ら同世代で若くして死んでいく特攻隊員たちに同情し、富永ら司令部の年寄たちが特攻すればいいと非難していたなど、第4航空軍司令部には批判的であったとのことで、特別に親密な関係ではなかったとしている。
富永は家族を大事にしており、妻女も戦後に富永がシベリアから帰ってくるのを待ち続け、ようやく帰国が決まると、マスコミの取材に「喜びの乾杯をあげたい」と喜んで答えている。しかし、マスコミにマッチポンプで「軍の高官の家族として反省が足りない」とバッシングされた。妻女はそれにめげることなく富永を迎えて、富永の晩年には二人で仲良く会合に出席する姿も見られ、富永の最期も看取っている。

  • フィリピン脱出時の航空機について
脱出時に富永は自分が乗る航空機から部下をわざわざ下ろして代わりに芸者を乗せ、さらにウイスキーを大量に積み込んだなどと、ダメ軍人ぶりを際立たせる目的で濡れ衣を着せられることもある。富永が逃亡時に搭乗したのは復座の九九式襲撃機であり、芸者を何人も詰め込むことはできないし、実際にはデング熱で弱って満足に航空機に搭乗できなかった富永を、参謀たちが寄ってたかってどうにか後部座席に押し込んで出発させており、この光景は多くの軍関係者や従軍記者に見られている。
また、富永は下戸で、わざわざ飲めないウイスキーを持っていくとは考えられないし、芸者については、マニラの日本陸軍ご用達の料亭『廣松』の芸者たちは、ルソン島に残った第14方面軍の管理下にあって、富永らが脱出後もルソン島に残り、第14方面軍とルソン島山中を終戦まで彷徨っており、一緒に逃げたという事実はない。

  • 長男について
長男の富永靖少尉は父親の汚名を返上しようと特攻に志願し、そのあまりに堂々とした態度に「あれは誰か」と参謀が尋ねると「富永閣下の息子さんです」という答えが返ってきたとされる。その手には富永から贈られた日章旗を握りしめていたとか。
靖は母側の祖父が著名な英語の教育者であった関係で幼少のころから英語に親しみ、進学した慶應義塾大学で親しかった同級生と戦後に英語の弁論大会を開催して英語教育に尽力しようと約束していたが、学徒動員で航空兵となり特攻に志願して戦死した靖はその約束を果たせなかった。戦後になって、靖と約束した同級生はその約束を実現するために努力して、英語弁論大会の開催にこぎつけた。その英語弁論大会とは、今日も続いている高円宮杯全日本中学校英語弁論大会である。

  • 諜報の専門家
第4航空軍司令官時代と「東條の腰巾着」時代の印象が強すぎて、それ以外の軍人としてのキャリアについて語られることが少ない富永であるが、永年色んな部署で対ソ連の諜報活動に携わっており「諜報活動の専門家」とも言える。
若かりし頃に参謀本部付でフランスの駐在武官に派遣されているが、そのときの任務は、ヨーロッパ内で対ソ連共産党活動をしていた亡命ロシア人組織との連絡役であった。その後関東軍の高級参謀時代も満州で対ソ諜報活動に従事している。
自分が諜報活動に従事してきた経験で参謀本部の庶務課にいたときには、日本陸軍の情報管理の杜撰さを指摘し、その強化に乗り出して大本営に第8課謀略課を立ち上げている。
また陸軍次官のとき、ソ連の大物スパイリヒャルト・ゾルゲが逮捕された。このとき、富永はゾルゲとソ連国内で逮捕抑留されていた日本人との捕虜交換交渉も行っているが、これはソ連から拒否されている。
戦後、そのような富永の経歴を熟知していたソ連当局によって、悪名高いモスクワのルビャンカの監獄に入れられ激しい尋問を受けている。このとき富永と同室だったのが「赤いオーケストラ」と呼ばれ恐れられた伝説の二重スパイレオポルド・トレッペルであったことからも、ソ連の富永に対する評価がわかるものだろう。

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