概要
日本陸軍における、天皇を担いで元老・政党・財閥を打破し、国家の改造を行おうとする思想を抱いた派閥(それに反対する派閥は「統制派」)。
軍内部では荒木貞夫・真崎甚三郎を中心に、理論指導の北一輝・西田税の影響を受けた一部の青年将校らを味方につけ、陸軍の二大派閥の一角として存在していた。
統制派は満州開発と将来の国家総力戦を見据えた国家の改革を訴えた。
対する皇道派はスターリンの粛清の混乱が生じているソ連へ侵攻すべしといった北進論と天皇に基づく国家の改造が思想の支柱である。
1931年発足の犬養内閣では陸軍大将に抜擢された荒木を始め、皇道派が重要ポストに採用された。しかし荒木が1934/01月に辞職すると、後任に選出されたのは統制派の林銑十郎であり、林はポストから皇道派を排除。教育総監の真崎甚三郎も1935/07月に職を追われるように。
皇道派はこの報復に1935/08/12、統制派の指導者永田鉄山を暗殺。
その勢いに乗って青年将校らはクーデターを決意し、「二・二六事件」を起こすこととなる。
しかし天皇に突き放され、大義名分を失うことになると、反乱軍として士官・影響を与えた思想家19名が死刑。荒木貞夫軍事参議官は予備役に退かされることとなり、皇道派は勢いを失うことに。