概要
常陸国にあった藩で御三家の一つ。紀州・尾張両藩は、それぞれ55万石、62万石を領し、代々大納言に任じられるの対し、水戸藩は28万石を与えられ代々中納言に任じられた。
歴史
もともとこの地域は佐竹家が治めていたが、江戸に近い場所に外様大名がいるのは危険と判断されたのか1602(慶長7)年秋田に移封された。代わって水戸には徳川家康の五男・武田信吉が15万石で、その後は十男・頼宣(紀州徳川家の祖)25万石で入封していたが、頼宣が駿河に転封となった後に同母弟である頼房が入り、前述のとおり28万石が与えられた。それと同時に常陸で獲れていたハタハタが取れなくなったという信憑性の低そうな逸話もある。ちなみにハタハタは現在は秋田の名物として知られている。
水戸藩の代表的な事業といえば「大日本史」である。日本の歴史を書物にまとめるという大プロジェクトは2代藩主・徳川光圀の命により1657年に開始し、廃藩置県で藩がなくなっても続き、完成したのは1906年である。これが幕末の尊王攘夷思想の礎になったと言われている。3代藩主・徳川綱條は、慢性的な財政難(後述)に対処するため浪人の松波勘十郎を登用して財政改革を実施したが、藩民が江戸に押しかけ集団示威行動を行ったために改革は挫折した。
9代藩主である徳川斉昭が日本最大規模の藩校である弘道館や、日本三名園の一つである偕楽園を設けたことでも知られる。幕末の前半は斉昭をはじめ藤田東湖、芹沢鴨ら、水戸藩に関連する人物が歴史の表舞台にたびたび登場し、大老・井伊直弼が襲われた桜田門外の変の犯人18人のうち17人が水戸藩士(1人は薩摩藩士)であるのに対し、後半は藩内の尊王攘夷運動に伴う天狗党の乱から始まった抗争や粛清で数多くの人材が失われたこともあり、征夷大将軍に就任した徳川慶喜を除いてほとんど登場しない。
藩政
徳川御三家の一角である水戸藩は、小規模な藩以外では唯一参勤交代を免除されていて、藩主は領地の水戸ではなく常に江戸に定住する義務を負っており、日常的に代々の将軍に仕えていた。 それゆえ、将軍の補佐役としての意味合いが強いことから 「天下の副将軍」とよばれた。これは朝廷にはない官職であり、幕府から水戸藩主に対して与えられた正式な地位でもなく、上記のような事実から付いた俗称である。
実質的な石高が名目上の石高よりも低かったという珍しい藩。御三家の石高が低いのではメンツが立たないかもしれないが、財政面では大きなデメリットで、領民は貧窮に喘いだ。藩の財政は前述の「大日本史」編纂事業などの文化事業も手伝って逼迫しており、一時は八公二民(80%が年貢として持っていかれるという意味)というとんでもない税率が設定されていた。普通は四公六民から五公五民ぐらいであり、財政難の藩でも六公四民、七公三民くらいまでがほとんど。八公二民は薩摩藩、高崎藩と並んで最悪の部類である。そして光圀没後は、毎年のように御用金を徴収し助郷や夫役という労力の提供も義務付けられ、それこそ乾いた雑巾を絞るように絞り取られたのである。
歴代藩主
- 徳川頼房
- 徳川光圀:頼房の三男
- 徳川綱條:頼房の次男・松平頼重(讃岐・高松藩主)の次男
- 徳川宗堯:頼重の四男・頼章の孫
- 徳川宗翰:宗堯の次男
- 徳川治保:宗翰の長男
- 徳川治紀:治保の長男
- 徳川斉脩:治紀の長男
- 徳川斉昭:治紀の三男、15代将軍・徳川慶喜の実父
- 徳川慶篤:斉昭の長男
- 徳川昭武:斉昭の十八男
余談
- 靖国神社に「幕末〜明治維新での戦死者」として祀られている人々には水戸藩出身者が圧倒的の多いが、一方で明治政府の閣僚や明治時代に旧大名・公家以外で爵位を与えられた水戸藩出身者はほぼいない。実は、これは裏と表の関係に有り、幕末の水戸藩内の内紛があまりに凄まじかった為、明治時代になる頃には人材が枯渇していたのである。
- 第2代藩主の光圀以降、藩主の死後、儒教風の諡号(おくりな)を付ける事が慣例となった。光圀の別名の「義公」や斉昭の別名の「烈公」は単なる渾名ではなく、水戸藩が正式に付けた諡号である。
- なお、第2代藩主の光圀の葬儀は、本人の遺言により、当時の日本で一般的だった仏式ではなく、朱子の著書の1つ「家礼」に基く儒教式で行なわれた。