藤田小四郎
ふじたこしろう
天保13年(1842年) - 元治2年2月23日(1865年3月20日)
常陸国東茨城郡水戸(茨城県水戸市)で当時水戸藩主・徳川斉昭の側用人であった藤田東湖の四男として生まれる。名は信(まこと)、字は子立。東海を雅号とし、一時期小野贇男と変えたこともある。母は東湖の妾であった土岐さき。
2歳の時、母さきが暇を出され藤田家を出る。原因は東照宮の例祭でさきが妾でありながら正妻の里子と同じ帯を仕立てて出席したことによる。これは身分を弁えない無作法な振る舞いであると世間から見咎められ、夫である東湖も批判の対象となったことから、家内の混乱を心配した里子により放逐されたものである。
小四郎には二人の兄(長男は早世)がいたが、小四郎は兄弟の中で最も才能があり活発であったと言われる。父東湖の影響を受け、尊皇攘夷思想を掲げて活動するようになる。
安政2年(1855年)、安政の大地震により父を失う。この頃から弘道館館長の原市之進に師事する。
文久3年(1863年)、藩主・徳川慶篤の上洛に随従し、長州藩士の桂小五郎、久坂玄瑞をはじめ京都に集う志士と交流する。これにより更に尊皇攘夷の思想を深くし、水戸藩過激派の首領格として台頭する。
元治元年3月27日(1864年5月2日)、朝廷より攘夷の勅が出されながら無策を続ける幕府に憤り、同志など60人余りが集結して筑波山にて挙兵する(天狗党の乱)も失敗し、越前国新保(現在の福井県敦賀市)にて加賀藩に捕縛される。
小四郎らは鰊(にしん)倉に監禁された後、加賀藩から幕府へ出された処分寛大の嘆願も空しく元治2年2月23日(1865年3月20日)敦賀の来迎寺にて処刑された。享年24。なお、この来迎寺は元々町人を処刑する場所であった。処刑後、小四郎の首は武田耕雲斎らの首と共に水戸に送られ、罪人として晒されている。
墓所は処刑場所となった福井県敦賀市松原町の来迎寺、および茨城県水戸市松本町にある常磐共有墓地。
辞世の歌は後に『義烈回天百首』(明治7年(1874年)発行)に掲載されている。
兼て与梨 思ひ初にし真心を けふ大君に 徒希て嬉しき
(かねてより おもいそめにしまごころを きょうたいくんに つげてうれしき)