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藤田東湖

ふじたとうこ

江戸時代末期の水戸藩士、儒学者。武田耕雲斎や戸田忠太夫とならび、「水戸の三田」と称された。(1806~1855)
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生涯

文化3年(1806年)、常陸国東茨城郡水戸(茨城県水戸市)で水戸藩士の藤田幽谷の二男として生まれる。名は彪(たけき)。通称、虎之助。次男であったが兄が早世したため嗣子として育てられる。父は「水戸学」の学者でもあり、若い時から父の私塾青藍舎で学び、江戸へ出て槍剣を学んだ。


父の没後は後継として水戸学の才を発揮し、本居宣長の「国学」を取り入れるなどして水戸学を発展させる。東湖は初めて「尊王攘夷」の語を使った存在とされ、幕末の尊王攘夷運動に多大の影響を与えた。

徳川斉昭が藩主となると抜擢されて藩の大改革を進め、藩校弘道館の建設等に尽力した。斉昭の右腕として東湖は水戸藩の思想をリードし、改革運動の中心人物となった。


斉昭が幕府から処罰を受けると東湖も幽閉され、その間多くの著書を著して尊王思想を推進した。ペリー来航後は処分を解かれ、斉昭が幕府外交に参与すると中央で活躍する機会に恵まれ、横井小楠橋本左内ら諸国の志士と交わった。


しかし、安政2年10月2日(1855年)に発生した安政の大地震に遭い江戸で死去。東湖は一度は脱出するも、火鉢の火を心配した母親が再び邸内に戻るとその後を追い、落下してきた梁から母親を守るために自らの肩で受け止め、母の脱出を助けて、無事を確かめたまま力尽き圧死したと伝わる。享年50歳。なお、この安政の大地震で東湖とも親しかった戸田忠太夫も事故死している。


東湖死後の水戸藩

東湖の死後、片腕を失った徳川斉昭は政治力が衰え、そして水戸藩も尊皇攘夷を唱える『天狗党』と幕府を支える『諸生派』に分裂し、内乱と内紛を繰り返すことになる。


この内乱と内紛は、幕末でも筆舌に尽くしがたい悲惨なもので、やがて水戸学の理想などどうでもよくなり、ひたすら殺し合い略奪し合うだけの、テロと略奪が蔓延する無政府状態になってしまう。東湖の四男・藤田小四郎は天狗党の首領格として挙兵し天狗党の乱を起こすも、鎮圧され処刑されてしまう。東湖の甥の武田金次郎は乱を生き延び、明治維新の余勢を駆って諸生派への復讐・襲撃を繰り返したが、明治政府に顧みられることもなく物乞い同然に零落するという虚しい最期を遂げた。

このように水戸藩は明治後にいたるまで殺し合いを続けて人材が枯渇し、幕末ではもっとも先進的な藩の一つであったにもかかわらず、明治維新と明治政府にはほとんど参加することなく終わってしまう。


もし東湖が生きていれば、もう少し水戸藩はまとまることができたであろうことを考えると、非常に惜しまれる死であった。そして、その功績を称え水戸には東湖神社が創られ、彼を祭神として祀っている。


創作作品における東湖

  • 陽だまりの樹
  • 西郷どん(林真理子の手がけた原作には登場するが、大河ドラマ化された際には登場せず、「紀行」で藤田東湖の功績が語られたのみであった)

NHK大河ドラマ

2021年3月14日放送の第5回の影響でTwitterのトレンド入りをはたす。

関連タグ

水戸藩 徳川斉昭

水戸学 尊王攘夷 藤田小四郎

東湖


西郷隆盛...東湖を心の師と仰ぎ、その思想に影響を受けた

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