概要
「天狗党」とは江戸時代の幕末に水戸藩の革新派であった尊王攘夷派に名付けられた名称である。
「藤田小四郎」が筑波山で挙兵した一派から膨れ上がった武装集団をまとめて「天狗党」と呼び、この一団が藩を二分する(反対派は「諸生党」と称された)水戸藩の藩政抗争の末に北関東や北陸を巻き込んで拡大した大争乱は「天狗党の乱」と呼ばれている。
現在はこの「天狗党」から派生した創作集団や創作作品が存在する。
幕末水戸藩の「天狗党」
幕末水戸藩における「革新派」の通称。
主に「藤田小四郎」が筑波山で挙兵し、その後増大発展していった「天狗党の乱」を引き起こした一連の武装集団の総称となっている。
「学問を鼻に掛け威張る成り上がり者」という意味から来ているとされている。
斉昭の死後トップ不在となった水戸藩は「諸生党」と呼ばれる保守派が勢力を盛り返す。後ろ盾を失い進退窮まった天狗党は武装蜂起による尊王攘夷を目指そうとするが、軍資金がないので周辺の町や村から略奪行為を行いその結果幕府から追討軍を差し向けられ軒並み捕縛されてしまう。
天狗党の略奪行為を重く見た討伐軍の田沼意尊は捕縛した残党を厳しい環境で拘留し(その劣悪な環境で多数の党員が衰弱死している)、武田耕雲斎をはじめとした首謀者は軒並み処刑された。
天狗党の壊滅を狙う諸生党や桜田門外の変で水戸藩士に井伊直弼を斬殺された彦根藩の影響で、天狗党の親類縁者にも過酷な処罰が言い渡され、数多く処刑されてしまう。
一方若年なのを理由に遠島処分にされた武田金次郎などわずかに生き延びた者たちは、時世が変わり討幕派が本格的に動き始めたところで中岡慎太郎のツテで本圀寺党(京都で活動していた水戸藩の尊王攘夷派)と合流し官軍となって、諸生党討伐の勅旨をもらい報復を開始。
これにより賊軍となって討幕軍の標的にされた諸生党は必死に抗戦するもあえなく敗退。水戸藩庁を掌握した金次郎を中心とする天狗党改め「さいみ党」は憎悪の赴くままに暴走し権力をかさに報復を開始。今度は諸生党やその家族がことごとく処刑され、密告やいちゃもんによる私刑が横行し地域は荒廃して発展が遅れてしまった。
結局、幕末の一思想として水戸学による尊王攘夷思想を抱き一時は主導権を握っていた水戸藩は率いるトップ不在の内ケバによる抗争により人材のことごとくを失い、生き残った者たちも度量や見識に欠け感情の赴くままに暴走する輩ばかりで失脚し零落する者たちが続出。新政府に有用な人材を送り込む機会を喪い(元幕府の人材ですら勝海舟や山岡鉄舟や榎本武揚などがいる)、重要な地位を獲得できたものはほとんどいなかった。
「天狗党の乱」の最後の勝者など何処にもいなかったと言っていいだろう。
唯一爵位を受け水戸藩の志士で一番成功した香川敬三は本圀寺党ではあるが、初期は京都が主な活動の場であった彼は上司の中岡慎太郎の影響もあり水戸学をはじめとした尊王攘夷運動に限界があると痛感して水戸とは距離をおいて礼節や外国の文明を学びつつ活動にいそしみ、その結果宮内庁で成果を残した人物である。
後に彼は金次郎をはじめとした零落した志士の名誉回復や救済に努めているが、行き過ぎた正義感による過激な思考に走りがちな水戸学から冷静に距離を置いた立ち回りは正しかったと言わざるを得ない。
他の天狗党と区別するために「水戸天狗党」の呼称がタグとして使われる事もある。
天狗党の構成員
水戸の儒学者「藤田東湖」の四男。
筑波山で挙兵(天狗党の乱)した武装集団「筑波勢」の実質的な首謀者。
那珂湊の戦いで敗れて大子町の山中に逃れた後、中山道を進軍するが敦賀(福井藩)で投降し、加賀藩に捕縛される。敦賀の来迎寺で斬首された(24歳没)。
何かとあざとい逸話の持ち主であり、乙女ゲームのキャラクターのモデルになったこともある。
→「遙かなる時空の中で5」マコト(マコト(遙かなる時空の中で5))
医師の息子で「筑波勢」の最初期からの参戦者だったが「愿蔵火事」と呼ばれた大火などの数々の暴挙により北関東を荒らしまくり「筑波勢」に対する鎮圧の大義名分を与えてしまった張本人。
「美青年であった」との伝承が残っている。
水戸藩革新派の一人。
小四郎の父・藤田東湖の友人でもあった。
小四郎から首領就任を懇願されるもこれを拒絶……したはずなのに、保守派諸生党との政争の果てに「大発勢」として争乱に巻き込まれ筑波勢と那珂湊で合流。
結局「天狗党の首領」を引き受ける羽目になってしまい、那珂湊の戦いで敗れた一団を北陸まで牽引し、福井藩敦賀で斬首される。
武田耕雲斎の孫の一人。藤田東湖の甥(妹の子)。
耕雲斎に付き従い「天狗党の乱」に参戦。
「敦賀の処刑」時に他の若年者達と供に遠島扱いとなり生き残ったが、水戸藩における「諸生党」による天狗党家族親族に対する残虐な刑罰に対し激怒した末に復讐者となり、大政奉還後に天狗党生き残り一派で徒党を組み水戸藩に帰還。「諸生党なら誰でも構わぬ残虐な仕返し」を果たす暴虐者と化してしまう。
この一派は「さいみ党」と呼ばれ、白昼堂々と襲撃と暗殺を繰り返し、これによって大混乱に陥った水戸藩は事実上、止めを刺されてしまう。
「諸生党壊滅の要因はこの男を激昂させたこと」とも言われている。
廃藩置県後しばらくは茨城県の参事に就くなど職を持っていたが、碌に座学もなく器も小さかったことから政務をこなすことができず次第に疎まれ始め明治政府からもまるで顧みられなくなり、経済的に困窮。「鰊蔵」(幽閉時)の後遺症からきた持病が悪化、やがて行方不明となる。晩年(1895年前後)は温泉宿で乞食同然で過ごしていたところを保護され水戸に戻されたが約3ケ月後に、48歳で逝去したという。明治生まれで大正から昭和期の評論家、山川菊栄は金次郎を「無知、幼稚。空虚な名門の思い上がりと、まるで復讐をあおるような朝廷からの甚だふさわしからぬ御言葉だけに支配されていた。五カ条の御誓文など読めもせず、読んで聞かされても、解りはしなかったろうともいわれた」と酷評している。
天狗党の関係者
藤田小四郎の父親であり水戸藩の著名な儒学者であり尊王攘夷思想家だった。
時の水戸藩主・徳川斉昭に重用されていたが「安政の大地震」により死亡。藤田東湖が生きていれば「天狗党の乱」は起こらなかった、とさえ言われる事も。
「天狗党」の敗走後、その親族に対する過酷な処分を主導して猛反発を招く。
戊辰戦争では佐幕派として奥州各地を転戦したが敗れて江戸に潜伏する。
1869年に水戸藩の捕吏に縛されて水戸へ移送され「正に晒し者」として「逆さ磔の刑」に処せられた。
おまけ
「天狗党の一員だった」と言われているが、
「天狗党の挙兵」以前にあった水戸藩革新派の一派「玉造勢」と呼ばれる勢力の一員だった可能性が高い。
そのため史実的には「天狗党の一員ではなかった」と考えられている。
「天狗党」の派生集団や派生作品
派生集団
「飛べ!イサミ」に登場する「黒天狗」こと「芹沢鴨之丞に率いられた太古の日本から存在していた敵組織。
「BASARA」の「天狗党」
タタラ(更紗)に出会い、革命軍に参加する事になる。
なお他の天狗党と区別するために「熊野天狗党」タグも使用されている。
奴良組お目付役「鴉天狗:鴉天狗(ぬら孫)」に率いられる奴良家の一党。
派生作品
「がんばれゴエモン」シリーズのゲーム。
こちらの「天狗党」は主人公の敵対組織である。
「大日本天狗党絵詞」
黒田硫黄によるマンガ作品。
天狗を再興させる為に「天狗党」を作る天狗たちの物語。
ジャンプで連載中の松井優征氏の漫画作品。南北朝での中先代の乱を描いた作品で、今作では足利尊氏の配下の諜報集団、つまり忍者として描かれている。
その名の通り皆天狗の面を被っている。