渋沢成一郎
しぶさわせいいちろう
天保9年6月10日(1838年7月30日)武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市)に生まれる。初名は喜作。
当時の多くの若者の例にもれず尊皇攘夷思想に傾倒し、文久3年(1863年)、従兄弟の尾高惇忠や渋沢栄一らとともに高崎城乗っ取りを企てるが断念。幕府の追求を逃れるため京へ向かい、平岡円四郎の推薦を受け、栄一とともに一橋慶喜に仕官、成一郎を名乗る。慶応3年(1867年)、慶喜が15代将軍に就くと幕臣となった。
翌年鳥羽・伏見の戦いでは軍目付として参戦するが幕府軍は惨敗。成一郎も江戸へ帰還する。慶喜が上野寛永寺で蟄居すると、慶喜の復権を求める幕臣らが結集し彰義隊を結成。投票により成一郎が頭取、天野八郎が副頭取となり、旧幕府首脳陣から江戸市中の警備を命じられた。尾高惇忠や渋沢平九郎(惇忠の弟で栄一の養子)も隊に加わっている。江戸城無血開城後慶喜が水戸へ移ると、成一郎は江戸から撤退し日光へ引き上げることを提案するが、新政府軍への徹底抗戦を主張する天野らが反発。一部過激派によって暗殺されそうになった成一郎らは惇忠らとともに彰義隊を離脱した。
その後水戸藩や一橋家ゆかりのもの、旧幕府陸軍兵などを集め振武隊を結成。上野戦争の残党を掃討しに来た新政府軍と飯能にて衝突するが敗れ草津に潜伏。その後惇忠と別れ、榎本武揚率いる旧幕府艦隊と合流し蝦夷地へと向かい、箱館戦争を戦った。戦後投降し、東京の軍務局糾問所に収監される。
明治5年(1872年)に赦免されると、名を喜作に戻し、大蔵省の官僚となっていた栄一の仲介を受け明治政府に出仕。西洋の製糸業を学ぶためヨーロッパへ留学した。帰国後大蔵省を退職し、同じく退職し実業家となっていた栄一の推薦で豪商小野組に入るが、金融政策の急変により小野組は破綻。明治8年、深川で渋沢商店を開業。地租改正により混乱していた米の流通再編に努めるほか、生糸の輸出・委託販売事業を展開する。
明治23年(1890年)に息子・作太郎に渋沢商店の経営を譲った後も、栄一とともに様々な事業に関与。明治36年(1903年)、全ての公職を退き、白金台の邸宅に隠居する。
大正元年(1912年)8月30日、75歳で死去。