結成~上野戦争
鳥羽・伏見の戦いの後、上野寛永寺に謹慎していた前将軍徳川慶喜警護の目的で幕臣を中心に構成された武装組織。幕臣の渋沢成一郎(渋沢栄一の従兄弟)を頭取、天野八郎を副頭取とし慶応4年(1868年)2月23日、浅草で結成式が行われた。隊名は「大義を彰(あきら)かにする」の意味。新政府との講和を目指していた勝海舟ら旧幕府首脳は、彰義隊の懐柔を図ると同時に悪化していた江戸の治安を回復させるため、彼らに市中の取り締まりを命じる。これにより彰義隊は江戸市民の支持を集め、周辺藩からの浪士や博徒などが参加。最盛期には3000人以上の規模に及んだ。
江戸城無血開城の後、慶喜が水戸へ移ると、江戸からの撤退を主張する渋沢と新政府軍に対する徹底抗戦を主張する天野とで対立が発生。天野派の隊士に暗殺されかけた渋沢が離脱し隊は再編。実権を握ることとなった天野は、寛永寺貫主公現入道親王(孝明天皇の義弟)を擁して寛永寺を拠点とし、新政府軍に対するゲリラ活動を行う。新政府は江戸城開城後も江戸を掌握しきれずにいた西郷隆盛に代わって大村益次郎を派遣し、彰義隊討伐を布告した。
5月15日、大村率いる新政府軍は彰義隊が籠る寛永寺を包囲。大村の巧みな戦術により彰義隊はわずか一日で大敗を喫した(上野戦争)。
天野は市中に潜み再起を図るが捕縛され、約5ヶ月後に獄中で病没。公現は脱出して仙台藩に身を寄せ、奥羽越列藩同盟の盟主に擁立された。
飯能戦争
一方離脱した渋沢は一橋家や水戸藩ゆかりの者を集め振武隊を結成。一橋家領地の飯能に屯集する。上野戦争勃発の知らせを聞き救援に向かおうとするが、すぐに彰義隊敗北の報が入ると落ち延びた隊士を吸収し、23日未明追撃してきた新政府軍と激突。しかしここでも敗北し、生き残った隊士は各地に散らばった。
箱館戦争
残党狩りを逃れ榎本武揚率いる脱走艦隊に合流した隊士は再び渋沢を頭に彰義隊として再編され、蝦夷地へ向かう。しかし上野での渋沢派と反渋沢派の対立は潜在しており、渋沢が松前城攻略戦にて先陣争いに加わらず、蔵の金の確保を優先したことを切っ掛けに再燃。榎本の仲介により池田長裕・菅沼三五郎率いる彰義隊と渋沢率いる小彰義隊とに分派している。箱館政権が誕生すると小彰義隊は陸軍第一列子満第一大隊、彰義隊は第二大隊へ編成された。
明治2年4月箱館への攻撃が始まると両隊は知内、木古内などで新政府軍と交戦。菅沼は5月11日の総攻撃の際に負傷し、病院にて死亡。18日に箱館政権は五稜郭を明け渡し降伏する。渋沢はその直前に脱出し、隊士を率いて湯の川へ逃走するが、その後投降。池田も脱出したとされるが消息については不詳。