京都見廻組
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きょうとみまわりぐみ
江戸時代末期に幕臣によって結成された京(京都)の治安維持のための警察部隊・軍事組織。
元治元年(1864年)、京都守護職松平容保の配下として、備中浅尾藩主蒔田広孝と旗本松平康正が京都見廻役に任命された。蒔田・松平の下にはそれぞれ約200名の旗本・御家人が配属され、京都見廻組として京都の市中警備を行うことになった。後に見廻役は幾度か交替しており、実質的な指揮は与頭(隊長)の佐々木只三郎が執っていた。
見廻組の詰所は二条城近くに置かれ、主に二条城や御所周辺を管轄とした。
同じく京都守護職配下で市中警備を行っていた新撰組とは、身分の違いや管轄権争いなどから反目しあっていたとされる。
慶応3年(1867年)11月15日、坂本龍馬・中岡慎太郎の暗殺(近江屋事件)に佐々木只三郎、今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安二郎、桂早之助、土肥仲蔵、桜井大三郎、渡辺篤らが関与したとされている(龍馬暗殺には見廻組が関与したという説のほかに、新選組が関与したという説や、武力討幕の邪魔になるとして西郷隆盛が関与したとの説などが今もささやかれている)。
慶応4年(1868年)正月に起きた鳥羽伏見の戦いで佐々木をはじめ多くの隊士が戦死し、見廻組は事実上瓦解。
生き残った隊士は狙撃隊として再編され日光東照宮の警備などに当たったが、新政府軍に解散させられた。
佐々木只三郎 | 与頭。『小太刀日本一』といわれ、近江屋事件で坂本龍馬と中岡慎太郎を暗殺。鳥羽伏見の戦いで戦死。 |
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今井信郎 | 肝煎。後に衝鋒隊副隊長として所属。龍馬ら暗殺の実行犯の一人。明治政府の尋問の際自分が龍馬を斬ったと自白している。 |
渡辺吉太郎 | 肝煎。龍馬ら暗殺の実行犯の一人。鳥羽伏見の戦いで戦死。 |
渡辺篤 | 肝煎。龍馬ら暗殺の実行犯の一人。鳥羽伏見の戦いの後江戸に敗走。その後京都に戻り、奈良県の公立機関に出仕し、京都で剣術道場を開く。 |
桂早之助 | 見廻組並→肝煎。龍馬ら暗殺の実行犯の一人。小太刀の達人で、今井同様龍馬を斬った人物とされる。鳥羽伏見の戦いで戦死。 |
高橋安次郎 | 見廻組並→肝煎介。龍馬ら暗殺の実行犯の一人。鳥羽伏見の戦いで戦死。 |
桜井大三郎 | 見廻組並。龍馬ら暗殺の実行犯の一人。鳥羽伏見の戦いで負傷し、乗船した軍艦富士山丸で死亡。 |
土肥仲蔵 | 見廻組並。龍馬ら暗殺の実行犯の一人。鳥羽伏見の戦いで負傷し、紀伊由良の念興寺に落ち延びるが傷が悪化し足手まといになるとして自刃。 |
世良敏郎 | 見廻組並。龍馬ら暗殺の実行犯の一人。乱闘の興奮から世良が刀の鞘を現場に置き忘れたと渡辺は語っている。没年は不明。 |
前島錠次郎 | 見廻組並。前島密の養父。 |
大沢源次郎 | 見廻組並だったが、討幕派に寝返ったとされ、後に新撰組に捕縛される。 |
高橋与八郎 | 見廻組並。慶應2年(1866年)2月頃、下賀茂神社参詣の列で酔って無礼を働き、同年3月に切腹。 |
飯田七九郎 | 見廻組並。『戊辰東軍戦死者霊名簿』で新撰組隊士とされていた。 |
佐々木源四郎 | 見廻組並。佐々木只三郎の実弟。 |
架空の隊士
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