今井信郎
いまいのぶお
天保12年10月2日(1841年12月2日) - 大正7年(1918年)6月25日
幕臣、京都見廻組の隊士。衝鋒隊副隊長。
凄腕の剣士であり、坂本龍馬を暗殺した人物の1人と言われている。
その罪を疑われて明治政府に捕縛されるが、釈放後は静岡県に移住。
八丈島(当時は静岡県)に赴任して小学校を開設し、後に榛原郡初倉村(現・島田市)に帰農して村長となった。農業実習を指導したり、学校長として児童教育にも携わり、地域の発展に注力した。
教育者として活動する傍ら、後年はキリスト教に帰依した。しかし、幕府と関わりの深い経歴ゆえ、日本政府から危険視され続けた。
今井信郎は、坂本龍馬を暗殺した疑いのある人物として真っ先に名が挙がることが多い。
明治3年の供述では、自分は見張りであって直接暗殺に関わってないと証言したが、事件から30年以上たった明治33年に関与を認めて友人の息子である甲斐新聞記者に話した。だが、その取材記事内容は記者により派手に脚色され、後にその記事を読んだ谷干城は暗殺の事実とかけ離れた内容に憤然として「(聞いた事も無い今井某の)売名行為」と断じた。その為に執筆した記者は後に「今井さんが話したがらないのを無理にお願いしたところ、友人の息子だからという事で折角話してくれたのに、脚色して彼を法螺吹きのようにしてしまい悪い事をした」という内容を語ったという。その3年後には今度は大阪新報記者に対して近江屋事件の事を語った。明治3年に関与を否定したのは、極刑を避けるためであったという。
若い頃はハンサムな出で立ちであったが、晩年になっても矍鑠していた。剣道だけでなく柔道でも各所の道場を回って稽古をつけており、門人たちが叩きのめされる程の強さだったらしい。
天保12年(1841年)、江戸で幕臣今井安五郎の長男として生まれる。10歳で元服し湯島聖堂に出仕。18歳で直心影流の榊原鍵吉に入門し、2年で免許皆伝を受けた。片手打ちという独自の剣技を編み出したが、試合で相手の頭蓋を割って殺害してしまったため、師から使用を禁止されたという。
文久3年(1864年)、神奈川奉行所取締役窪田鎮章の配下となり、ここで後に衝鋒隊隊長となる古屋佐久左衛門と出会った。
慶応3年(1867年)に上洛し、10月京都見廻組に編入される。11月15日、佐々木只三郎らとともに与力組頭として坂本龍馬・中岡慎太郎の暗殺(近江屋事件)に関与したとされる。
戊辰戦争が勃発すると、鳥羽伏見の戦いに幕府方として参戦するが敗北し江戸に帰還。
古屋佐久左衛門とともに、鳥羽伏見の戦いで戦死したかつての上司窪田鎮章配下の第12連隊など残存兵らが江戸を脱走したのを追って帰順させ、それらを衝鋒隊として再編し、信濃や越後を転戦。榎本武揚らに合流し箱館戦争まで戦い抜いた。
新政府軍に降伏後、坂本・中岡殺害について尋問される。今井は殺害への関与を認めつつも、公務であり罪には当たらないと主張し禁固刑となった(西郷隆盛による助命嘆願があったという俗説がある)。この時獄中で大鳥圭介から英語を学んだという。
明治5年(1872年)に特赦を受けると、徳川家の転封先であった静岡に移り、教師や官吏、村長などを務める。
西南戦争が起こると、かつての衝鋒隊士を集め西郷軍に協力しようとしたが間に合わなかった、という俗説もある。
また当初はキリスト教に偏見を持っていたが、後にその教義に感銘を受けてクリスチャンとなった。坂本龍馬の甥で養子の坂本直がキリスト教式の龍馬の法要を開いた際にはこれに出席している。
大正7年(1918年)、脳卒中で死去。享年78。