慶応3年11月15日(1867年12月10日)京都近江屋にて土佐藩脱藩浪士で海援隊隊長の坂本龍馬と陸援隊隊長の中岡慎太郎が暗殺された事件で、本能寺の変にも並ぶ程の日本史上の大事件。
事件の背景
龍馬はそれまで薩摩藩の定宿であった寺田屋を宿所としていたが、慶応2年(1866年)正月に、幕府の伏見奉行による襲撃を受けてしまう。(寺田屋事件)この時寺田屋は30人ほどの捕り手に囲まれたが、1階で風呂に入っていた恋人のお龍が裸で階段を駆け上がり、2階にいた龍馬に危険を知らせたというのは有名な話である。龍馬は所持していたピストルで応戦したが負傷。しかしお龍と共に薩摩藩邸に逃げ込む事に成功した。
この時の反省からか、龍馬が近江屋を定宿とするようになるのは、近江屋事件が起こる直前のことである。11月12日頃に龍馬は風邪を引いたため、11月14日頃は近江屋の二階に移り養生していた。
襲撃前の状況
龍馬が近江屋を定宿とするようになって1か月程経った事件当日(11月15日)の夜半、中岡が近江屋に龍馬を訪ね、2階の8畳間で龍馬と話し合いをしている。その内容は、京都の三条大橋に掲げられた長州藩を咎める制札を引き抜いて新撰組に捕らえられた土佐藩士の宮川助五郎の処遇であったという。中岡はその身元引き受けについて龍馬に相談するため、近江屋を訪れたのだった。
その後も話は盛り上がったらしく、夜になった頃近江屋にまた来客があった。御陵衛士の伊東甲子太郎らが近江屋を訪れて国事について語る。伊東は龍馬に「新撰組や見廻組が狙っている」と忠告した。(この時、中岡は感謝したが龍馬は無下に追い返したという)
午後7時頃、龍馬は腹が減ったと言い、近江屋主人の息子 鹿野峰吉(菊谷峰吉)に軍鶏を買いに行かせた。ちなみに龍馬は軍鶏鍋が好物である。風邪を治す滋養目的の他、その日が日だった為か、龍馬を喜ばせようとしていたのかも知れない。この時海援隊隊士の岡本健三郎も同行した。
襲撃
その夜、数人の武士達がやって来て「自分たちは十津川郷士で坂本先生にお会いしたい」と願い出た。それに応対した元力士の山田藤吉は、名刺を龍馬のもとに持っていった後、戻ったところを斬られ絶命した。(諸説によると刺客は藤吉を斬るつもりはなかったが鉢合わせしてしまい、止むを得ず斬ったとのこと)藤吉が悲鳴を上げて倒れ、大きな物音がすると、龍馬は「ほたえな」(土佐弁で騒ぐな)と叫んだ。
これにより、龍馬の居場所が刺客にバレてしまった。刺客たちは龍馬と中岡が居る奥の八畳間に乱入し、一人が脇差で龍馬の前頭部を横に払い、一人は中岡の後頭部を斬った。龍馬は奥の床の間にあった刀を取ろうと振り返ったところを右の肩先から左の背中にかけて斬られ、そして刀をとって立ち上がったが、抜くには至らず、鞘のままで刀を受け止めた。しかし刺客の刀は鞘を割り、中の刀身を削り、龍馬の前頭部に大きな傷を与えた。(因みに、この時に側に掛けられていた、文人であり支援者であった板倉槐堂から貰った梅花の掛け軸(龍馬への贈り物)に血が飛び散り付着した。血のついた掛け軸は現存している)
一方で中岡は刀を屏風の後ろにおいており、刀を抜くこともできずに鞘のままで防戦していた。
しかし最初の傷が深く両手両足を斬られ、特に右手はほとんど切断されるほどであった。臀部を斬られ、それ以上の傷を貰うまいと死んだふりをした。やがて刺客は「もうよい、もうよい」と叫んで引き上げていった。
刺客が去った後、龍馬は額などを斬られた致命傷の身体で六畳間へ行き、近江屋主人の新助に「医者を呼べ」と伝え、それから微かな声で「石川(中岡の変名)、わしは脳をやられちょる、もうだめだ」と言い、昏倒した。
中岡は両手両足の痛みを堪えながら裏の物干しに出て、屋根を伝い北隣の道具屋である井筒屋嘉兵衛の家の屋根で人を呼んだが、家人は寝てしまったのか返答は無く、中岡はそのまま動けなくなる。
すぐ向かいにある土佐藩邸から救援が来たときには、すでに刺客は近江屋にはおらず、階下で倒れていた藤吉と部屋で倒れている龍馬が発見された。また井筒屋の屋根の上にいた中岡も発見された。
現場には犯人のものと思われる刀の鞘が残されていた。このとき、頭部を斬られた龍馬は即死。藤吉は16日の夕刻に死亡、中岡は一時持ち直し、軽食を取ることができるまでになったものの、2日後の11月17日の夕刻に突如喀血し、治療の甲斐無く息を引き取った。
襲撃があった11月15日(旧暦)、奇しくもその日は龍馬の誕生日だった。
影響
龍馬と中岡の死は、倒幕派に大きな影響を与え、岩倉具視は「何物の凶豎ぞ、我が両腕を奪い去る」と嘆き、三条実美は寝食を忘れるほど慟哭したという。
海援隊や陸援隊の仲間は当然怒り狂い、海援隊隊士の陸奥宗光は過去「いろは丸事件」で対立した紀州藩士・三浦休太郎が黒幕であると当たりをつけ、復仇のために彼が滞在していた天満屋を襲撃。三浦の護衛に付いていた斎藤一ら新撰組隊士と激闘になった(天満屋事件)。特に谷干城は龍馬に深く心酔していたため積怨も凄まじく、生涯を掛けて真犯人を探し続けた。後に近藤勇の処刑に関わった際、龍馬の敵討ちの意図も含めて彼の斬首を主張したと言われる。
伴侶を失った妻・お龍は、龍馬と親交のあった長州藩士・三吉慎蔵の世話になりつつ、暫くして土佐の坂本家に引き取られた。しかしそこでの暮らしは上手くいかず、龍馬の仲間や家族を頼りながら暮らす流転の日々となったが、最終的に再婚。やがて彼女の家に転がり込んできた妹と夫がデキて逐電したり、アルコール依存症に陥ったりと晩年は不遇を託っていた。龍馬に先立たれた心の傷は癒えず、「私は龍馬の妻だ」が酒に溺れた彼女の口癖だったという。
実行犯
龍馬の死から150年以上経過した今も犯人は分かっていない。 暗殺の実行犯には、京都見廻組・新撰組・紀州藩などの説がある。本能寺の変同様、対象だった龍馬たちが死ぬことで得をする者が余りに多く、容疑者を絞り切れないのも一因である。
京都見廻組犯行説
現在、一番有力説なのが見廻組説である。元見廻組隊士 今井信郎は箱館戦争にて降伏後、兵部省と刑部省によって取り調べを受けた際、自供している。
その内容は見廻組与頭 佐々木只三郎の指示で、今井を含めた7人で近江屋へ向かい、佐々木・渡辺吉太郎・高橋安次郎・桂早之助の4人が実行犯となって龍馬らを殺害したと発言している。しかし、明治33年(1900年)に結城禮一郎の取材に応じた際には、今井が実行犯となっており、更に大正年間には元見廻組隊士の渡辺篤が自身と佐々木・今井ら五、六名で殺害に及んだと証言した。(これは今井が当初挙げた実行者は今井自身を除き全て鳥羽・伏見の戦いで戦死していることから、今井には渡辺篤や世良敏郎ら存命者をかばう意図があったのではないかとせれている)
後に雑誌に転載されたものを見た谷干城は、中岡からの証言と異なっていることなどから今井の証言が偽物であり、「売名の手段に過ぎぬ」と度々発言していて、このため当時は今井の証言が有力なものであるとは受け止められなかった。また当初は実行犯は新撰組とされていたが、今井は明治42年に大阪新報の記者和田天華の取材に対し、「暗殺ではなく幕府の命令による職務であった」「犯人は新選組ではない」と回答している。更に、当初現場に残されていた鞘(新撰組の原田左之助の物と思われていた)に関して、今井は渡辺吉太郎の鞘であると証言し、渡辺は世良敏郎のものであるとしている。
更に、後に龍馬を斬ったとされる刀(刀身42.1cmの脇差)が発見され、京都霊山護国神社に併設されている霊山歴史館に展示されていて、この刀の持ち主が桂早之助で龍馬を殺害したのは桂とも言われている。(ただし、長州藩の記録では龍馬の遺体には34箇所の切り傷があり、複数人に滅多切りにされたともされる)
事件から46年後の大正12年(1923年)に没した佐々木の実兄で松平容保の側近を務めた手代木直右衛門の伝記によると手代木は死の間際において龍馬を殺害したのは実弟只三郎であること、龍馬が薩長連合の立役者であり、土佐藩の藩論を討幕に一致せしめたことなどが知れ幕府から狙われていたこと、見廻組が某諸侯の命を受け龍馬を襲撃したことを述べたとされる。ちなみに某諸侯とは京都所司代だった桑名藩主・松平定敬を指しているとされるが、佐々木の遺族は佐々木の伝記で容保の指令だったと書き残している。
新撰組犯行説
襲撃を受けた中岡の証言によると、犯人は「こなくそ」と発しており、犯人は「中国から四国にかけてのものであろう」と判定されていた。元新撰組→御陵衛士の阿部十郎は「そうであるならば伊予の松山藩でありましょう」と答え、伊予出身の原田左之助の名が挙げられ、また現場に残されてた鞘をみて、御陵衛士の篠原泰之進や内海次郎は原田の物であると証言している。
また新撰組隊士の大石鍬次郎は、加納鷲雄に捕えられた際に、新撰組の犯行だと証言したが、後にそれは拷問から逃れるために偽証したことで、見廻組の4人が実行したことを近藤ら新撰組上層部は知っていたと述べている。しかし今井の口上書が公表されるまでは、新撰組犯行説が広く信じられていた。
紀州藩報復説
海援隊隊士の陸奥陽之助は、海援隊と紀州藩の間に起こり、海援隊側の勝利に終わった。この時龍馬は、沈没したいろは丸の賠償金を紀州藩に支払わせたとされる。訴訟「いろは丸事件」に対する、紀州藩士の恨みによる犯行であると考えていた。
州藩公用人の三浦休太郎の犯行の噂が当時から出回っており、現場に残された鞘も紀州藩士がよく使うものであったという。そのため三浦が陸奥や沢村惣之丞ら海援隊隊士らに襲撃され、護衛を依頼されていた新撰組との間に戦闘が起こる事件(天満屋事件)が発生した。
薩摩藩陰謀説
西郷隆盛、大久保利通らを中心とする薩摩藩内の武力倒幕派による陰謀だとする説。
大政奉還以降、龍馬は幕府に対する態度を軟化させ、徳川慶喜を含めた諸侯会議による新政府の設立に傾いていたとも言われていて、武力倒幕を目指していた西郷、大久保らが、こうした龍馬の動きを看過できなくなり、故意に幕府側に龍馬の所在を漏らしたとする説がある。
この説は大政奉還路線と武力倒幕路線の対立を必要以上に強調しすぎたきらいがあり、両者は相容れない路線ではなかったとする学説を全く考慮に入れていないところが最大の問題で、その点で根拠が弱い。この説には一部で熱狂的な支持者がいるものの、歴史学界ではほとんど相手にされていないのが実情である。
またこの他にも西郷、大久保から名を受けた「人斬り半次郎」こと中村半次郎犯行説などがあるが定かではない。
その他の諸説
この他にも薩摩藩に取り入る手土産として暗殺したとされる伊東甲子太郎ら御陵衛士犯行説や、薩長に武器の売り込みを狙ったとされる英国武器商人陰謀説があり、一説には後藤象二郎が大政奉還のアイデアを独占するために龍馬を消したという説もある。さらに、あくまでも奇説のたぐいだが龍馬対中岡の内ゲバ説やフリーメイソン説などがある。小説家の加治将一氏はこの2つの説を採用している。
近江屋その後
現在、近江屋は現存せず、近江屋主人 新助の子孫が昭和前期まで「近新商店」の名で醤油を製造していたが、それも戦後に廃業となった。現在は「坂本龍馬 中岡慎太郎 遭難之地」と記された石碑が建っているが、幕末当時に店を構えていた場所は、石碑が建ってる場所の北隣にあった。(建立場所が隣地になったのは、1927年の建立の際、土地所有者の了承が得られなかったためだそうだ。)