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大石鍬次郎

おおいしくわじろう

新撰組隊士。(諸士調役兼監察) 近藤勇らと同じく天然理心流の使い手。 「人斬り鍬次郎」の異名が有名。
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概要編集

天保9年(1838年)、一橋家家臣大石捨次郎の長男として生まれる。

若い頃、事情により生家を出奔。日野の大工の下に住み込みで働くことになり、この大工が佐藤彦五郎(土方歳三の義兄)の屋敷の普請に携わった縁から、天然理心流剣術を学び始めたとされる。

また鍬次郎はこれより以前に小野派一刀流を修めていたという。


元治元年(1864年)9月、近藤勇江戸に戻り隊士を募集。天然理心流の門人は積極的に採用され、27歳の鍬次郎は新撰組に入隊。この時伊東甲子太郎とその一党も共に上洛し、新撰組に加わった。

二種類残っている部隊編成のどちらでも鍬次郎は一番隊に所属。また監察も務めており、重用されていたと思われる。


慶応2年(1866年)2月、実家大石家を継いでいた弟造酒蔵が京都にて死去。新撰組隊士今井裕次郎に殺害されたとする逸話があるが、実際の死因は不明。

これにより近藤は鍬次郎が大石家家督を継げるよう手配したが、親族が難色を示して叶わなかった。結局は妹が婿養子を迎えたとも、断絶してしまったとも伝わる。


鍬次郎は三条制札事件、油小路事件、天満屋事件などに出動。特に油小路事件では、伊東甲子太郎殺害に直接関わったとされる。そのため御陵衛士からは仇と見なされ、深い恨みを買った。


戊辰戦争が始まり、鳥羽伏見の戦いに幕府軍が敗れると新撰組は江戸に引き上げる。甲州勝沼の戦いでは近藤の側近を固めていたとされる。

しかし五兵衛新田に屯集した後脱走。江戸の妻子の許に潜伏したと思われる。


潜伏していた鍬次郎は新撰組の同僚であった三井丑之助と再会。しかし三井は薩摩藩の協力者となっており、鍬次郎は三井や元御陵衛士加納鷲雄らによって捕縛され、坂本龍馬中岡慎太郎および伊東甲子太郎殺害の容疑をかけられる。

鍬次郎は伊東甲子太郎殺害については認めつつも、公務によるもので罪には当たらないと主張し続けたが、明治3年(1870年)10月10日、伊東殺害の罪で処刑された。


人物・逸話編集

元御陵衛士の阿部十郎は大石鍬次郎について「残酷で世情については何も知らず、ただ剣の腕だけは立つ」と伝える。このような評価から人斬り鍬次郎として新選組暗部のイメージが定着するようになった。

出世欲が強かったという評も残っている。

一方、昭和まで生きた新選組隊士池田七三郎は、入隊間もないころに鍬次郎から隊務について教えられたと語っており、「立派な身なりで、丁寧な対応をしてくれた」としている。


また御陵衛士らの深い恨みを買いつつも剣の腕は認められていたことから、相当な使い手であったことが窺える。


創作編集

新選組!編集

演:根本慎太郎

「人斬り」のイメージから新選組隊士の中でも特に好戦的且つ血の気の多い危険人物となっており、作中ではそれぞれ近藤と腹を割って話し合う事で、改心した武田観柳斎や、和解した伊東を独断専行で暗殺してしまうなど、終始余計なことをして、状況を悪化させてしまうトラブルメーカーとして描かれている。


幕末恋華新選組』編集

習作:大石鍬次郎

CV:加藤木賢志


幕末尽忠報国烈士伝MIBURO編集

CV:今谷皆美

新撰組・諸士調役兼監察

イサリン(近藤勇)達と同じく武州多摩出身で幹部達にも負けず劣らずの剣の腕の持ち主。

主人公、見田健を「御主人様」と呼び、何故か懐いている。口癖は「おじゃが」。


関連項目編集

新撰組 天然理心流

人斬り

大和守安定・・・大石鍬次郎の佩刀とされる

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