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概要編集

生年は不明。前名は下村嗣次とされる。『石河明善日記』によれば、「手綱領松井村神官次郎八の倅 次郎八百姓より神官御取立の者也」とあり、常陸国多賀郡松井村(現在の北茨城市中郷町松井)の神官下村祐(次郎八のこと)の実子とされる。


水戸藩士芹沢又衛門以幹(剣術師範を務めた佐藤家から芹沢家に養子に入る。日置流雪荷派弓術の達人)の子供という説も存在しており、こちらも現在注目されている。

又衛門家の本家筋にあたる水戸藩上席鄕士芹沢外記貞幹(本家)の三男玄太だとの説もあるが、兵太の表記誤りである。兵太は元治元年9~12月に諸生党の治療役に参加していた記録があり、文久3年9月に暗殺された芹沢鴨とは別人だ。


戸賀崎熊太郎から神道無念流剣術を学び、免許皆伝を受け師範代を務めたとされる。

尊皇攘夷思想を持ち、玉造勢と呼ばれる水戸藩の尊皇攘夷派の集団に属していた。強姦、商家への強請、殺人を繰り返し、天領で暴れたことがきっかけとなって下村は捕縛され獄中に投じられる。だが、文久2年、水戸藩内での政治バランスが変化し、浪士赦免論が生じる。そこで出された大赦令により下村は出獄(文久3年1月)。この後、名前を芹沢鴨と改めた説がある。


出獄後、芹沢は江戸に向かい、上洛に際し将軍の警護を目的(本当の目的は尊皇攘夷運動の先駆けとなる事)として清河八郎をリーダーとした浪士組に参加した。ここで、後に共に新撰組を立ち上げる近藤勇土方歳三らと出会う。浪士組は京都到着後、朝廷の直属組織となり、尊皇攘夷を決行するため江戸に戻ろうとするが、芹沢や近藤などはこれに反対して京都に残る事を選択して浪士組を脱退した。


京都残留を希望した芹沢や近藤らは嘆願書を京都守護職の松平容保(会津藩藩主)に提出し、京都守護職御預かりとなった。金戒光明寺にて松平容保に拝謁。壬生浪士として京都の治安維持を担った。この壬生浪士で、芹沢は筆頭局長、近藤や新見錦が浪士頭を担っている。


この頃、一部の攘夷派による倒幕運動が激しくなっており、孝明天皇を石清水行幸の途上で拉致し、攘夷戦争の総司令官として担ぐ(「天皇御親征の外なし」)などの噂が絶えず、文久3年夏に八月十八日の政変が勃発。芹沢ら壬生浪士も参加し、ここでの功績が評価され、後に松平容保から「新選組」の名を授かる。


一般には、芹沢は商人らへの恐喝、力士との乱闘騒ぎ、酒の席での傷害事件、遊女への強制断髪などの暴力行為、1863年(文久3年)8月12日に 京都葭屋町一条にあった生糸商大和屋に金策を断られた腹いせに大和屋に大筒を放ち炎上させた大和屋事件は西村兼文『新撰組始末記』に記されるのみなので、後世に創作されたものとする見方があるが、多くの風説書に壬生浪士の関与が記され、また近年発見された『新選組浪士始末』にも芹沢の仕業とあるので、事実だったとも言われる。



1863年(文久3年)9月13日、芹沢、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、原田左之助など15名が有栖川宮家に奉公を申し出た(『有栖川宮日記』)。


このあと、会津藩から新撰組隊士の近藤、土方、山南敬助らに対し、芹沢一派に対する処罰を行うよう密命が出されたとされている。


9月15日、新見が祇園の料亭「山緒」にて局中法度違反により切腹(ただし、局中法度そのものが一部創作されているため、新見の処罰に関しても現状諸説あり)。


9月16日(9月18日説もあり)、新撰組は島原の角屋にて宴会を開き、芹沢はしたたかに酒を飲んだ。平山五郎平間重助と共に屯所へ戻り就寝していたところ、新撰組隊士数名に夜襲され、芹沢、平山、お梅は暗殺された。(この際に平間は逃亡し、しばらくのちに郷里の芹沢村に帰ってきたと言われる。芹沢派の野口健司は同年の12月に切腹した。)


事件後、暗殺事件は長州藩によるものとして処理されたが、届出のあった役所の記録では、新選組内の抗争が原因との推測が記されている。

芹沢の写真編集

ネット上で「芹沢鴨の写真」として体格の良い侍が従者と写っている写真が紹介されることがあるが、これは誤りで芹沢の写真は存在しない。情報源は永六輔の『幕末の素顔 日本異外史』に収録された写真で、その書籍に収録された写真はすべて米国国立図書館に所蔵のものである。同書には顔立ちの良い青年剣士の写真が収録されており、この写真は沖田総司として収録されているが、これも誤り。


創作上での扱い編集

新撰組を扱った作品での大半は酒に溺れ手の付けられない凶暴な悪漢として描かれることが多い。

しかしその反面、堂々としていて大将またはリーダー格の器を持ち、粛清される時など近藤ら試衛館派に大きな影響を残すことがあり完全に憎めない存在になることもある。


小説編集

幕末新選組編集

永倉新八を主人公とする池波正太郎の小説。

このなかでの芹沢は一種の性格異常者で酒が入ると手に負えなくなるなど大筋は一般的な芹沢像だが、同門の神道無念流である永倉のさっぱりした気性が可愛がっていた亡き弟にそっくりだという理由で自ら永倉の髭剃りをするなど何かと面倒をみ、自分の酒は悪い酒だと熟知しながらも、そうなるには人間、余程の理由があるのだからと永倉からの自らの生い立ちへの問いかけには答えず複雑な過去を匂わせるなど人間味ある面が描写されている。

そんな芹沢との関係で永倉は芹沢暗殺役からは外され、永倉は芹沢の死を心から悼んでいる。


実写・ドラマ編集

大河ドラマ 新選組!編集

大河ドラマ「新撰組!」

演:佐藤浩市

壬生浪士組(新選組)筆頭局長。剣術や学問の実力を備えた一廉の人物だが傍若無人で他人はおろか自分すら信じれず自身の弱い部分を突かれると己を律しきれなくなる。そして酒癖も悪い。

近藤達とは清河の画策に反対し共に京に残った同志だが自分とは違う真っ直ぐな生き方でありながら、自分に敬意をもって接してくる近藤に徐々に引け目を感じ始め、大阪の力士との乱闘事件で近藤が実直な対応で解決したことでコンプレックスを募らせ遂に商家大和屋を襲撃してしまう。そして自分たちに粛清命令が下され暗殺当日の夜、隊士総出の宴の際非情になりきれず自分に今夜起こる事を話そうとする近藤に対して「鬼になれよ近藤、鬼になって俺を食っちまえよ。遠慮はいらねえよ。」と覚悟を告げ部下の平山と平間を連れ屯所へ戻る。そして、自分を粛清する刺客の中に前から一目を置いていた沖田がいたことを確認した際に「嬉しいぜ」と零し、土方、沖田と死闘を繰り広げ最終的に暗殺され、沖田に刺された際にはどこか満足げな笑みを浮かべていた。彼の存在は近藤達に大きな影響を与えた。

余談だが佐藤の父である三國連太郎は1969年に公開された三船敏郎制作の「新選組」で芹沢鴨を演じていて親子二代で芹沢役を演じた。


漫画・アニメ・ゲーム編集

薄桜鬼編集

芹沢鴨  -  Serizawa Kamo

CV:中田譲治


ちるらん新撰組鎮魂歌編集

芹沢鴨

CV:小西克幸

新撰組筆頭局長。

サングラスをかけたりする非常にファンキーな人物。好きな言葉は「暴力」で、何の躊躇もなく人を斬る。


龍が如く維新!編集

壬生浪士組(後の新撰組)結成当時近藤勇と共に局長を務めていた人物で、後に仲間の平山、平間と共に近藤一派に粛清されたとされているが…


Fate/GrandOrder編集

かも

セイバークラスのサーヴァント(英霊)として召喚された芹沢鴨

ぐだぐだ邪馬台国で登場。


幕末尽忠報国烈士伝MIBURO編集

CV:神代岬

新選組筆頭局長、近藤たちと共に壬生浪士組を結成する。性格は豪胆で残忍、凶暴。


ねこねこ日本史編集

新選組よ、永遠なれ!(画像左上)

CV.木内太郎

ただのマガモ非常に威張っており、初代局長として浪士組を支配していたが、カモがネコに勝てるわけもなく粛清された(おいしかった)。

モデルにしたキャラクター編集

るろうに剣心編集

志々雄真実

志々雄真実


関連項目編集

幕末 京都 新撰組 酒乱

近藤勇 土方歳三 新見錦

平山五郎 平間重助 野口健司


伊東鴨太郎:銀魂の登場人物。人物像のモデルは新撰組参謀・伊東甲子太郎だが、名前の元ネタの一部が芹沢鴨に由来。

葱沢鴨:おそらく芹沢鴨が名前の由来。

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