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清河八郎

きよかわはちろう

清河八郎とは、江戸末期の志士・学者。文武両道に優れた尊王攘夷派の一人で、彼の発案によって結成された「浪士組」はその後の新撰組・新徴組の元ともなるなど、後の明治維新の火付け役の一人とも言える人物であるが、後に幕府との対立の末に命を落とした。(1830年-1863年)
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概要編集

出羽庄内藩出身の志士で、本名は齋藤正明。実家の斎藤家は庄内の名家である酒屋で、その祖先は平安末期、源義経に忠誠をつくした武将・佐藤継信にまで遡れるとされる。

尊皇攘夷の志士の先鋒として、諸国の志士たちに対して決起を促し、後には新撰組などにも繋がる「浪士組」を結成するなど、幕末の動乱期における維新への動きを積極的に主導。後年徳富蘇峰からも「維新回天偉業の魁」と称された。


背が高く堂々とした体躯と、色白で気品のある容貌の持ち主であったと伝わり、また同時代の志士や名士からもその文武両道なところや囂々落々たる様、それに人望の厚さを高く評価されている。他方で、他者との議論において辛辣かつ率直な物言いも目立つ人物であったようで、その点を直すよう忠告したものの結局直らず終いであった事を、後に高橋泥舟が述懐している。


生涯編集

前半生編集

幼少期から地元の役人などに師事して勉学に勤しみ、後に江戸へ出て東条一堂や安積艮斎といった学者らの元で学才を磨き、後には昌平坂学問所にも入学している。またその傍ら、千葉周作の玄武館で北辰一刀流の免許皆伝を許されるなど剣術の修行にも明け暮れており、安政元年(1854年)には江戸神田にて清河塾を開き、自ら学問と剣術を教えるようにもなった。

また一連の江戸での活動に先んじて、嘉永元年(1848年)叔父らと共に大阪など西国各地を漫遊。2年後には遊学のため単身上洛の後、九州においても2ヶ月あまりの漫遊に及び、当地の学者を訪ね歩いたという。このように八郎は勉学や武術だけでなく、諸国を旅して回る事も好んでいたようで、江戸在中の安政2年(1855年)にも母を連れて西は岩国、東は日光に至るまでの大旅行を行っている。この時八郎が記した旅の記録は『西遊草』として、現在においても幕末の旅行事情を知る上では貴重な資料となっている。


尊王志士として編集

安政7年(1860年)に発生した桜田門外の変に強い衝撃を受け、これを機に八郎は倒幕・尊皇攘夷の思想に強く傾倒するようになる。やがて山岡鉄太郎(鉄舟)益満休之助など、幕臣や諸国の藩士を問わず憂国の士が清河の元に集うようになり、彼らを束ねる形で「虎尾の会」を結成するに至る。

しかし、虎尾の会に属する一部の志士が起こしたヘンリー・ヒュースケン(アメリカ総領事・ハリスの秘書兼通訳)の殺害事件や、横浜外国人居留地焼き討ち計画に絡んで、幕府より厳しい監視の目が向けられる事となり、翌文久元年(1861年)には幕府側の計略により、罵詈雑言を浴びせてきた幕府の手先を斬り捨てたため、八郎自身もまた幕府に追われる立場となった。


その後は再び諸国を転々とし、真木和泉(保臣)河上彦斎平野国臣など志を同じくする者達とも接触を図りつつ、薩摩藩による兵を率いての上洛に期待を寄せ、これと呼応しての挙兵を諸国の尊攘派志士らに説いて回っていた。しかし実際に上洛した薩摩藩の目的は尊攘ではなく、あくまで公武合体の推進であったため、ここでも八郎の目論見は敢え無く頓挫する事となる。


急務三策と浪士組結成編集

文久2年(1862年)、江戸へと密かに舞い戻った八郎は、山岡鉄太郎を通して幕府に「急務三策」と呼ばれる意見書を上書する。その内容は「攘夷の断行」「大赦の発令」「天下の英才の教育」を唱えたものであり、幕府もこの当時江戸にて横行する尊攘志士の狼藉ぶりに頭を悩ませていた事から、その懐柔策として急務三策の採用を決定。かくして翌年初めに「浪士組」の結成が許可されるに至る。

浪士組は先の急務三策にて挙げられた3つの条件の元、腕に覚えがあれば身分・年令を問わず誰もが参加できるという、当時としては画期的な組織として結成された。八郎も山岡らと共に浪士取締役に就任、文久3年(1863年)2月には将軍・徳川家茂上洛の前衛のため、先んじて京都壬生村へと入った。


しかし八郎の本当の狙いは別のところにあった。到着早々、浪士組の隊士らに明かしたその目的は将軍の警護などではなく、尊皇攘夷の先鋒を務めるというものであった。その後浪士組全員の署名を募って朝廷へと建白書を提出するなど、浪士組が尊攘へと舵を切ろうとする中、生麦事件の事後処理を巡って幕府側の対応が難渋している事を知った八郎は、破約攘夷を約した建白書を再度朝廷に提出の上で、浪士組を率いて関東へと取って返し、江戸や横浜にて異国人を打ち払う旨を隊士たちに通告する。

ところが、この八郎の通告に対し根岸友山芹沢鴨近藤勇らが猛烈に異を唱え、京都への残留を表明した。また浪士組の前述した動静を不安視した幕府も、再三にわたって彼らに江戸への帰還を命じている。結果として八郎らが率いる浪士組が京都を去る一方、芹沢や近藤らは前述の通り彼らと袂を分かってそのまま京都に留まり、やがて会津藩預かりとして「壬生浪士組(後の新撰組)」を結成するのである。


江戸への帰還後も、八郎の元には続々と尊攘派の浪士が参集し、横浜居留区襲撃の計画も再度立ち上げられるが、このように一大勢力を築きつつあった八郎の存在に対し、強い危機感を覚えた幕府は暗殺を決断。そして江戸帰還から一月あまり後の文久3年4月13日(1863年5月30日)、八郎は麻布赤羽橋にて佐々木只三郎ら刺客の手にかかり、34年の生涯に幕を下ろした。

八郎亡き後その同士たちも軒並み捕縛され、残された浪士組は幕府によって再編され庄内藩預かりの「新徴組」として、江戸市中の警護や海防の任につく事となる。


備考編集

子母澤寛の『新選組始末記』によれば、虎尾の会や浪士組の一員として清河と行動を共にしていた石坂周造は、清河が暗殺された報を聞くや直ぐに暗殺現場へと駆けつけた。

そこで役人に「どなたが殺されたのですか?」ととぼけて尋ね、清河八郎との答えを得ると「清河八郎は自分の仇であり、自分の手で殺さなかったのは残念だが、せめて首だけは頂きたい」というはったりをかまして、清河の首のみならず同志の連判状を持ち出す事に成功し、山岡鉄舟の家に届けたという。


関連タグ編集

幕末 明治維新

山岡鉄舟 芹沢鴨 近藤勇 新撰組

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