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概要編集

天保7年(1836年)?~文久3年(1863年)

水戸脱藩浪士で、岡田助右衛門の元で神道無念流剣術を学んだ。

詳しい出自は定かではないが、水戸藩士新家粂太郎と同一人物であるとする説があり、下村嗣次芹沢鴨か)らとともに行方郡玉造村を中心として過激な攘夷資金取り立てを行い投獄されていたが、大赦が出て新見錦と改名したとされる。


その後文久3年(1863年)1月、芹沢らと浪士組に参加し上洛。そのまま京に留まり、会津藩主松平容保の御預りとして壬生浪士組(後の新撰組)を結成。新見は芹沢、近藤勇とともに局長に就いた。

しかし4月に大坂の商家から100両を借りた記録を最後に、新見錦の名は新選組史から途絶える。

田中伊織と名を改めたとされることが多い。降格処分を受け、9月13日に切腹した。


新家粂太郎説を採れば、壬生浪士組を離れ、正親町公董に随行して長州へ下り、暴力沙汰を起こし9月15日に死亡したと明らかになっている。加藤桜老「復京日記」『榊陰年譜』(笠間稲荷神社刊)によれば防府の土昌寺(蘆樵寺)に墓碑が建立されていた。

また明治時代に作られた長州派の志士たちを祀る霊山招魂社の祭神として新見錦も祀られており、長州と親密な関係にあったことが窺える。


創作編集

新選組!編集

演:相島一之

壬生浪士組(新選組)局長、後に副長。芹沢鴨の右腕的存在。学があるため、浪士組の上京後の清河八郎の朝廷への建白書の真意をつかみ、佐々木只三郎へ報告する。芹沢を理解し行動を共にしており、次第に組織内で顔が大きくなっていく近藤達を懸念して、芹沢と水戸派の地位を守る為に牽制を図るなど、試衛館派に対して度々角を立てていた。商家の大和屋の一件で芹沢から責任を押し付けられ、副長に降格、謹慎の処分を下される(その際に芹沢からは「腹を切れ」とまで言い渡されるが、その場では近藤達のとりなしで降格・謹慎で済まされた)。自身をぞんざいに扱ったことに不満を感じていたところを水戸派一掃を狙う土方と山南に突かれ、芹沢が又三郎を斬殺した顛末を報告して芹沢を売るように仕向けられる。同時に隊内を律するための局中法度が設けられたが、これは新見を体よく葬るためのものでもあり、土方・山南の策謀によって逆に仲間を陥れようとした「士道に背いた」罪で詰め腹を切らされ(芹沢の又三郎斬殺の一件に関しては法度制定の前の事であった為、不問とされた)、土方が渡した刀で切腹し(切腹の際土方にこの法度が後も新たな犠牲者が出ること、山南にせいぜい足をすくわれないようと恨み言を遺した)、局中法度によって粛清された最初の犠牲者となった。


薄桜鬼黎明録編集

死中に活を供する

CV:田村健亮


ちるらん新撰組鎮魂歌編集

R.I.P

(右の人物)


関連タグ編集

芹沢鴨 近藤勇 土方歳三 山南敬助

平山五郎 平間重助 野口健司

田中伊織

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