概要
1844年8月20日生、1897年8月24日没。
紀伊藩士であり、生まれは紀州伊達氏(12世紀ごろ奥州伊達氏と分化)。伊達小次郎を名乗り、のちに陸奥陽之助と称する。
あの坂本龍馬の舎弟の中ではおそらく一番の出世頭であり、不平等条約改正の嚆矢を放ったことで小学校の歴史教科書にも載っている偉人である。
来歴
実家が困窮につき江戸で儒学を学ぶも、10代のガキにも拘らず事あるごとに吉原で女遊びしていたことが発覚し追い出され、そこで師匠坂本龍馬と出会う。1863年、龍馬や彼の仲間たちと共に勝海舟の海軍操練所に入り、解散後は龍馬に付き従い海援隊に入隊。メキメキと頭角を現していった。龍馬から「刀なしでやっていけるのは俺と陸奥だけだ」と評価された。
龍馬が京都見廻組に暗殺された際にはショックを受け、紀州の佐幕藩士・三浦休太郎を「てめえが坂本さんを殺ったんだな~!!」と決めつけて襲い掛かり、新撰組の斎藤一まで飛び出す大立ち回りを起こした。
明治維新後は岩倉具視によりその才を見出され、明治政府の役人となり兵庫県や神奈川県で知事の任にも就く。しかし新政府が薩長藩閥政府と化していることに嫌気がさし下野、更に西南戦争時に起こったテロの裏取引に参与していたことがばれて投獄される。
明治16年に特赦が下りると、旧友伊藤博文からの勧めでイギリスに留学。同19年の帰国後に再び明治政府に戻り、後に彼のマウンドとなる外務省に配属される。
なお、陸奥が再び政治の役職に就くことには明治天皇が大変難色を示していた。前述のように、西南戦争時のテロの裏取引という前科ありの経歴が明治天皇の心象を悪くしていたのである。しかし、度重なる伊藤の推薦に明治天皇も我を折って、これを承諾した。
生来のキレと海外留学の経験から陸奥の知略はさえわたり、カミソリ陸奥の異名をとることとなる。明治21年に駐米大使となった陸奥は、日本初の平等条約である日墨修好通商条約の締結という快挙を成し遂げた。
帰国後に第1次山県有朋内閣の農商務省大臣となり、更に第1回衆議院議員選挙で和歌山から当選。今となっちゃ珍しくもなんともないが、当時は唯一の現役議員閣僚であった。なお、この時の秘書が後の平民宰相原敬である。
続く松方正義内閣においては薩摩派との政争を起こし、後藤象二郎との協力で自分のいる松方内閣をボロクソに批判する新聞を出版、内閣を辞して枢密院顧問官となった。
その後第2次伊藤博文内閣にまた呼ばれ(こんなに何度もホイホイ呼ばれる時点でいかに彼が有能であったかは窺える)、外務大臣に着任。そして明治27年、イギリスとの間に幕末から延々続いていた治外法権の撤廃に成功する。これに伴い、陸奥はアメリカ・ドイツ・フランス・イタリア・ロシアとも治外法権を完全撤廃し、残るは関税自主権の不存在だけとなった。この功績が認められ、陸奥は子爵の位を得る。
だがその年、東アジアの情勢は緊迫を増していた。陸奥は伊藤の対清路線に協調し、イギリス、ロシアとの根回しを行い日清戦争を優位に立ち回らせた。日本は清を破り、滅茶苦茶日本に有利な下関条約の締結までこぎつけた。しかしこのころには、陸奥の肺を病魔が蝕んでいた。
下関条約から間もなくして、露仏独は三国干渉を行い、日本に遼東半島を返還せよと勧告する。陸奥の身体はもう交渉席に立てるものではなくなっていた。彼は外務大臣の職を辞し、療養生活を送った。
陸奥宗光が落命したのは、それから1年後の明治30年であった。
それから10年の時を経て、外務省は陸奥の銅像を建立する。
戦時中、金属徴用により一度破壊されたものの、今なお陸奥宗光像は外務省の敷地内に立ち、この国の明日を見つめている。
関連項目
陸奥(銀魂):陸奥宗光がモデルのキャラ