概要
明治初期、東京新橋にある柏屋の芸者になって、小鈴(小兼)の名で通っていた。
1872年5月に客の陸奥宗光(17歳)の後妻になる。
1878年に政府転覆運動に荷担した疑いで宗光が禁固5年の刑で捕まるが、亮子は子育てをしながら獄中にいる宗光を支え、宗光も亮子に多くの手紙を送っていた。
1882年に宗光が出獄を許され、1886年から政府に出仕すると、社交界入りした亮子は「鹿鳴館の華」と称された。
1888年に駐米公使となった宗光と共に渡米すると、その美貌、魅力、話術によって第一等の貴婦人と謳われて「ワシントン社交界の華」「駐米日本公使館の華」とも称された。
宗光死後の1900年8月15日、45歳で腫瘍により亡くなる。