鹿鳴館
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ろくめいかん
明治時代に外交政策として設けられた社交場。
明治中期に賓客や外交官を接待するために政府が設けた社交場。
鹿鳴という名は、宴会で賓客をもてなす『詩経』小雅「呦呦鹿鳴、食野之苹」(呦呦と鹿は鳴き、野の苹〈よもぎ〉を食う)を典拠としている。
設計はニコライ堂などを設計したイギリス出身のお雇い外国人ジョサイア・コンドル。
工部大学校(のちの東京大学工学部)で教鞭を執り、辰野金吾ら現代でも著名な建築家を幾人も育てた。日本の近代建築を語る上で欠かせない人物である。
明治16年(1883年)に落成。日本が「文化的な」国であることを欧米に示し、不平等条約改正につなげようという布石の一環であったが、国内からは文化的侵略との批判の声が多く「形ばかり整えて何になるか」とも言われていた。
「洋装をしてダンスを踊るサル」という人種差別的な風刺画がビゴーによって描かれている他、国外からの評価も芳しいものではなく、鹿鳴館を訪れた外交官が「豪奢ではあるがカジノを思わせる軽薄な内装」、「無理にドレスを着てダンスを覚えたのが見え見えの女性」などと書き残している。
明治20年(1887年)、鹿鳴館外交の旗振り役であった井上馨が不平等条約の改正失敗により失脚したことで迎賓館としては使われなくなり、わずか4年でその役目を終えた。明治維新後、まだまだ西欧との付き合いが手探りであった時代の局所的な文化の華として見られている。
その後も建物自体は華族会館として使用され、昭和15年(1940年)に跡形もなく解体された。保存されていれば観光地になっていただろうが、跡形もなく消えたあたりが当時を知る人々の心境を表しているのだろう。鹿鳴館で使用されていた階段やシャンデリアなどは現在も保存されている。
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