廃仏毀釈とは、明治時代に起きた民間運動のひとつである。
概説
“仏”教を“廃”し“釈”迦の像を“毀”(こわ)す の意。
即ち仏教弾圧である。
長らく仏教は、奈良時代から江戸時代まで、政治・文化を問わず日本の精神を支える柱の一つであった。
まして後述するほどの大規模な弾圧運動に発展したことは、日本史上でもかつてない事態である。
発端は「意識改革」
明治時代になり、国家の信教を明確するにあたって、発足間もない日本政府は勤皇の姿勢を強めるために「神仏分離令」を発令。
これにより平安時代から続いてきた「神仏習合」の信仰は政治上からは廃止され、また政府の財源を圧迫する寺院への寄進や保障の一切を打ち切り、別の財源に回す余力を生むことにも成功した。
また政府主導の尊王主義による思想統率も、この方針を後押しするきっかけとなった。
しかし当然の話だが、日本の仏教界はこの政府の政策に混乱状態へと陥った。
それまでどんな寺院であろうと、その存在は幕府によって庇護され、また新興宗教による治安の混乱を予防と、集落の戸籍管理・人口の推移を一任されてきた。
ただ寺院の経営は、檀信徒による寄進と布施によって成り立っていたため、地域によっては幕府の威勢を傘にして管理費の取り立てを重くする寺社も存在し、寺院に対して強い反骨心を募らせる集落も少なくなかった。
ほか住む土地を移すと、その土地の宗派に強制的に改宗されることになり、その宗旨に合わせた信仰や負担が住民に圧し掛かってもいた……というか、そもそも住む土地を移すためには戸籍管理をしていた寺社の許可を要したため、壇家の減少が死活問題に直結する寺院はそもそも住む土地を移る事や、たとえ同宗門内でも別派別流の宗旨へ移る事すら許さなかった。
この長年の怒りが爆発し、表在化したのが「廃仏毀釈」である。
明治改革最大の汚点
「神仏分離令」の影響により財源を失った全国の寺院は、暴徒と化したかつての檀信徒たちによって無遠慮に伽藍(寺院内の施設)を破壊され、また仏像や珍宝も簒奪されるなど、被害は凄惨を極めた。
中には現在まで残っていれば国宝認定だったであろう重宝も容赦なく破壊・略奪され、修復不可能にされたり、ひどい場合はその場で焼かれ、また盗まれたものは海外に多量に流出し、骨董として闇へ消えていった。
そうして多数の寺院が閉山へと追い込まれた。
影響はこれに止まらず、それまで幕藩体制によって後継者問題を解決してきた寺院は、自分たちで後継者不足を補填する必要に迫られ、「衰滅か女犯か」の究極の選択を突き付けられてしまう。
その末に、日本の仏僧は妻帯の道を選ぶに至った。
尤も浄土宗・浄土真宗では、元から妻帯を問題としてこなかったこともあり、そちらでは大きな問題ともならなかったが、それら以外の戒律を厳守してきた宗派にとっては苦渋の決断に変わりなかった。
それでも多数の仏僧が還俗(僧侶の廃業)を強いられ、路頭に迷う事態も引き起こしている。
こうした文化破壊に対し、当時東京大学に赴任していたアメリカの歴史・哲学者のアーネスト・フェノロサと、彼の弟子として文化人・学識者として一家言を持つようになった岡倉天心が日本文化崩壊の危機として、全国に向かって廃仏毀釈の抑止と日本文化の再確認を強く訴える運動を展開していった。
皮肉なことに、日本人の破壊衝動に歯止めを掛けたのは海外の日本美術の愛好者だった。
また当初は無関心を貫いていた明治政府も、予想以上の惨状と仏教界からの必死の弁明により、一部方針を是正し、歴史的価値の高い寺院の保護に乗り出すことに路線を変更していく。ただ一方で、仏教界には天皇崇拝の義務を押し付け、神道の配下的存在に降ることを条件とし、結果として日本仏教界は第二次世界大戦終結まで政府の下に神道の下位組織に位置付けられ、服従を強いられる暗黒期を迎えることになった。
国家思想の統制のための信教統一を図った「神仏分離令」だったが、それは日本が古来から培ってきた異文化への寛容性の排除にも繋がり、新時代の到来による急速な変化の中で、最悪の事態を招くに至ってしまった。
のちにこの一連の流れは、歴史研究者(特に文化財関連の研究家)から明治政府の改革における最大の汚点とまで称されている。
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