概要
1886年10月24日、イギリスのマダムソン・ベル汽船会社が所有する貨物船ノルマントン号が三重県四日市市より和歌山県樫野崎までの沖合で難破、座礁沈没した。
その際、イギリス人のジョン・ウイリアム・ドレイク船長以下、イギリス人とドイツ人からなる乗員26名は救助ボートに乗って助かったが、日本人乗客25名は一人も避難が出来ず全員死亡した。
当時の外務大臣井上馨は日本人乗客だけが死亡した状況に疑問を抱き、実況調査を開始。国内ではドレイク船長以下船員の日本人乗客に行った非人道的な行為に国民が怒りに燃え、人種差別に沸騰した。
しか当時の日本には不平等条約によって治外法権が認められていなかった為に、十分な事実検証が出来ず、11月1日。神戸駐在在日日英国領事のジェームズ・ツループは海難裁判にて
「船員は溺れていた日本人にボートに乗るよう指示したが、日本人は英語が通じず船内にこもって出ようとしなかった」
というドレイク船長の訴えを認め、船長を無罪とした。
この判決を知った日本国民は大激怒。「東京日日新聞」(後の毎日新聞)は
「いかに日本人は無知だといえ、危にのぞんで、危うきを知らず、助けをえて、助けをかりることを知らないほどの白痴瘋癲であるはずがない。」
と痛烈に批判。現代語訳すると
「英語が通じなくても、船が沈んで自分が溺れかけてる状態で船員が話しかけられたなら流石に救助の意図ぐらい分かる。日本人を馬鹿にするのも大概にしろ。」
という事である。当たり前だ。
全国各地から遺族への儀損金が寄せられ、各種新聞社はイギリスや弱腰な政府、特に欧化政策によって条約改正を目指していた井上外交を「媚態外交」「弱腰外交」と連日バッシングした。
井上外交は沸騰する世論を無視できず、当時の内海忠勝兵庫県知事に命令してドレイク船長らの出船を停止させ、兵庫県知事名で告訴し横浜英国領事裁判所にて裁判が行われた。
12月8日にニコラス・ハンネン裁判長はドレイク船長に有罪判決を下し、禁固三ヶ月に処した。
しかし損害賠償請求裁判の支援者らが遺族に起訴停止の勧告をし、遺族らが取り下げた事で賠償金は支払われなかった。
この事件をきっかけに国内では外交の刷新と不平等条約撤廃を求める動きがさらに強まり、事件から8年後の1894年に領事裁判権は撤廃された。
- 風説
ドレーク船長は、溺れ掛けている日本人に対し
「Do you have money?(お前ら金持ってんの?)」=「助かりたけりゃ金を出せ」
と言ったという説がある。他の船員が言ったとも。
言ってもおかしくなさそうな状況であるがあくまで風説である。
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