概要
明治時代に活躍した政治家・官僚で、大日本帝国憲法起草に携わった人物の一人。
幕末の頃は熊本藩士だった。
憲法一条を「治ス(シラス)」とではなく「統治ス(ウシハク)」と区別して記したことが有名で、大日本帝国憲法を論議する上でしばしば語られる人物である。
経歴
幼少期から神童ともてはやされ、勉強熱心だった。その姿勢を主君・長岡是容から気に入られ、長岡家の家塾・必由堂で5年間を過ごした後、儒学者木下犀潭の塾へ入門して秀才として注目されると、木下の推薦で藩校時習館の居寮生となった。
1866、井上茂手三郎の養子になり姓を井上に替える。1867年9月に幕府開設の横浜にあるフランス語伝習所へ移ったが、10月に大政奉還]して幕府が滅亡した上に68年1月から戊辰戦争が発生して旅行は中止に。諦めず7月に長崎のフランス語伝習所へ転入したが、熊本藩が明治時代に味方として参戦。長崎遊学も断念し、熊本藩兵として従軍した。
1871年12月に明治政府の司法省に仕官し、フランス語ができるため江藤新平に随行する西欧使節団の一因として渡欧、フランス中心に司法制度の調査研究を行う。ベルリンでは法学会で歴史法学を重視して学び、日本固有の文化・習慣・法律の保持を考えるようになる。
1874年に清との交渉文書の作成を任され、1875年には「王国建国法」を訳出、1876年にに岩倉具視から憲法制定の諮問に応じて意見を提出。
1881年大隈重信と矢野文雄が憲法意見書を提出した際、イギリスに範をとえう憲法制度に反対し、プロイセン型を主張。伊藤博文のプレーンとして活躍し、12月に発足した参事院の議員になって国会開設の詔を起草、1882年に発布される軍人勅諭の起草に関わる。
1884年からは大日本帝国憲法の起草に参加し、皇室典範にも関わる。1889念2月11日に大日本帝国憲法が公布された。
以降も第1次山縣内閣で教育勅語の制定や予算案に関する対策を練り、第2次伊藤内閣では文部大臣を務めた。
関連タグ
井上馨・・・同じ「井上」かつ明治時代に活躍した人物でもあるのでごっちゃにしないよう注意。血縁関係はない。