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大隈重信

おおくましげのぶ

(天保9年2月16日~大正11年1月10日) 第8・17代内閣総理大臣。明治・大正の政治家。佐賀藩士。従一位大勲位。侯爵。教育を重視して早稲田大学を設立した。

明治大正の政治家。佐賀藩士。

生涯 

幼名八太郎。家は佐賀藩の砲術師範。子供の頃に父を亡くし母の手で育てられる。
藩校弘道館で学ぶが、学制改革を試みるなどして放校処分となる。のち長崎にて英学を学び、アメリカ人宣教師フルベッキに会い、世界に目を向けるようになった。英学塾を設け、さらに政治家になることを決意したと言われる。徳川慶喜に大政奉還を進言すべく副島種臣と共に脱藩し途中で送還され藩主直正の寛大な処置で切腹は免れる。イギリス公使パークスとキリスト教解禁を巡る激論を交わすが国際法の知識を活かし勝利を勝ち取る。
明治政府では、外交交渉で活躍し、参議・大蔵卿を歴任し殖産興業政策を推進するが、自由民権運動への対処をめぐって伊藤博文と対立し野に下る。

下野した大隈は民権派に加わり立憲改進党を結成。イギリス流の立憲君主制国家をめざし、尾崎行雄犬養毅ら後の政党政治で重きをなす人物が参加した。その後組織改革をめぐる対立で立憲改進党を脱退、伊藤博文に請われて再び政府に加わり外相などを歴任。

明治22年に右翼から爆弾を投げつけられ、右足を失う。明治31年、憲政党を率いる大隈は薩長藩閥以外からでは初の内閣総理大臣を拝命。板垣退助尾崎行雄犬養毅ら憲政党の政治家が参画する日本初の政党内閣、いわゆる隈板内閣を組閣した。

一時政治家を引退し東京専門学校(早稲田大学の前身)を創立。その後、早稲田大学総長となる。

大正に入ると政界に復帰し、山本権兵衛の後を受けて第二次大隈内閣を組閣した。

第一次世界大戦が起ると中国への帝国主義的野心から参戦し中華民国政府に対華21カ条要求を突きつけた。対華要求はその後の交渉で一部は取り下げたものの、日中関係に取り返しのつかない禍根を残したほか、米英に対し対日警戒論が台頭するきっかけとなり、日英同盟が解消する一因となった。

2回目の首相就任中に侯爵に列した。大正11年に死去。約30万人の一般市民が参列する国民葬で送られた。

身長180cmと言われる、江戸時代後期生まれの日本人では珍しい長身で、その講演は人気があった。字を書くことが嫌いで、著書はいずれも口述筆記による。

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内閣総理大臣 早稲田大学 大隈信常

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