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プロフィール編集

生没:文政10年6月23日(1827年7月16日)~慶応4年閏4月6日(1868年5月27日

幼名:剛太郎

通称:又一

官位:豊後守→上野介


松平広忠徳川家康に仕えた三河小栗氏の小栗吉忠の子孫。忠順の通称の「又一」は吉忠の嫡子・忠政が合戦の度に一番槍を挙げたことを家康から賞され与えられたものであり忠政直系の子孫は小栗又一家とも呼ばれる。忠政は大坂夏の陣での戦傷が元で死去したが嫡流の当主は代々「又一」の通称を名乗った。

ちなみに次男の政信は剣術と柔術などを組み合わせた武芸流派「小栗流」の祖となり、幕末には坂本龍馬も学んでいる。


概要編集

禄高2,500石の旗本・小栗忠高の嫡子。

幼少期は周囲から悪戯好きなうつけ者扱いすらされたが、8歳で小栗屋敷内にあった安積艮斎の私塾「見山楼」に入門してからは才能が開花し14歳頃には威風堂々たる人物になっており煙管で煙草を吸いながら議論を行ったという。栗本鋤雲とはこの頃からの知り合いである。ちなみに見山楼には吉田松陰高杉晋作清河八郎前島密らも学んでいる。勉学のみならず武芸の達人でもあり剣術は直心影流免許皆伝を許され柔術も修めた。他には砲術や兵学を修め、砲術を学んでいた頃から開国論に興味を抱くようになった。10代半ばにしてその文武両道ぶりを注目され17歳になった天保14年(1843年)に登城した。若くして両御番となる。しかし、あまりに率直過ぎる物言いを上に疎まれては免職させられるも才幹を惜しまれては復職を繰り返した。

28歳の時、父を誤診により失い小栗又一家の家督を継いだ。

30歳で御遣番となった。以後、遣米使節の監察外国奉行勘定奉行南町奉行軍艦奉行を歴任。ちなみに斬首に処されるまでの10年間で何度も要職を務めては辞めてを繰り返している

大政奉還後、徳川慶喜に罷免されて隠遁。しかし、薩長軍に追討令を出され、捕縛され斬首に処された。享年42。


処刑後に娘の国子が生まれたものの、生前の忠順は子に恵まれず従妹の鉞子を養女とした。婿として駒井朝温の次男・忠道を養嗣子に迎えていたが、忠道は忠順が処刑された翌日に処刑されている。


遣米使節編集

安政7年(1860年)、忠順は遣米使節の監察としてアメリカサンフランシスコへと旅立った。

  • この際、アメリカ人から使節団の代表と勘違いされたという(正使は新見正興)。これは正興をはじめ他の面々が外国人慣れしていなかった中で、忠順は詰警備役として外国人との交渉に慣れていたがため。
  • また、「日本はスパイを使節として同行させてるのか」と嫌疑をかけられたことがある。この際も忠順は「目付というのはケンソル(監察官)だ」と主張して切り抜けたという。
  • フィラデルフィアでは通貨の交換比率見直しの交渉を行った。忠順は金貨の分析実験を行い、日本側の主張の正しさを証明して見せたものの、改正自体には至らなかった。だが、アメリカの新聞はこの忠順の交渉を絶賛した。
  • 忠順は海軍工廠の見学に行った際、その技術に驚嘆してネジを持ち帰っていった。

その後忠順は別の船に乗り換えたうえで大西洋を渡り、品川へ戻っていった。帰国後、小栗はこの功により禄高を200石加増され、外国奉行に就任する。

ポサドニック号事件編集

文久元年2月3日(1861年3月14日)、ロシア帝国軍艦対馬占領するポサドニック号事件が発生。5月7日(6月14日)、外国奉行の忠順は咸臨丸で現場の対馬に派遣される。10日、14日、18日の3回に渡り忠順は艦長と会談を行った。

第2回会談で忠順は「ロシア兵の無断上陸は条約違反」であるとして抗議を行う。4日後の第3回会談で藩主との謁見を求める艦長に対し、忠順は「(謁見を認めたらロシア兵の対馬居留を認めることになるので許可できない、と老中安藤信正から言われたので)謁見はできないと回答。艦長は「話が違う」として猛抗議したが、対する忠順は「私を射殺して構わない」と言って押し切ったという。20日に江戸へと戻った忠順は老中に

  • 対馬を直轄領とする。
  • 事件の折衝は正式の外交形式で行う。
  • 国際世論に訴え、場合によってはイギリス海軍の協力を得る。

などを提言したが、受け入れられずに忠順は7月に外国奉行を辞めてしまった。だが8月、イギリスの圧力でポサドニック号は対馬から撤退することになる。


横須賀製鉄所横須賀造船所横須賀海軍工廠編集

慶応元年(1865年)、忠順の進言によりフランスの技師・レオンス・ヴェルニー首長として横須賀製鉄所が開設される。この時に月給制、社内規則、残業手当といった経営学や人事労務管理の基礎が日本に導入される。小栗は兵器・装備品の国産化を推進し、更なる幕府軍の軍事力強化のために力を尽くした。

ちなみに造船所で使われたスチームハンマーは幕府が倒れて100年以上経過した平成の世(2000年)まで現役で稼働、艦船整備のためのドライドックの方に使われているものに至っては米軍基地内の施設としていまなお現役である。


経済編集

忠順は経済面でも施策を打ち出す。資本の少なさから日本商人が海外貿易で不利益を被っていることを受け、それを解決するために忠順は日本最初の株式会社「兵庫商社」を慶応3年(1867年)に設立。8月には日本初の本格的ホテルである築地ホテル館の建設を開始し、翌年に完成させた。


横浜仏蘭西語伝習所編集

製鉄所開設をきっかけに日本初のフランス語学校・横浜仏蘭西語伝習所が設立される。この学校は本場のフランス人講師を招いた本格的な授業が行える学校で、第1期生として忠順の養嗣子・忠道も通った。


評価編集

近年その類稀なる外交能力や内政実務能力が評価され、「坂本龍馬がいなくても幕末は語れるが、小栗忠順がいないと幕末は語れない」とまで豪語する学者まで現れるほどである。

攘夷志士薩長の史観ではなく、江戸幕府から見た史観では偉人であり、小説家の司馬遼太郎は著書において「明治の父」と絶賛した。

そもそも明治政府が行った近代化政策は、江戸幕府の時点で忠順も唱えていた。問題は、旧態依然が著しい江戸幕府にはそれを行える力がなく、それには忠順自身も「一言で国を滅ぼす言葉はどうにかなろうの一言なり。幕府が滅亡したるはこの一言なり」と嘆いている。

また、戦術家としても優れていたようで徳川慶喜が恭順を決めた為に実行されなかったが薩長への徹底抗戦を訴えた際には「箱根の隘路に陣を構え敵の足を止めている間に東海道の敵の本隊を駿河湾から艦砲射撃で攻撃する」という作戦を立案しており、戦後にそれを聞いた大村益次郎は「小栗豊後守の策が実行されていたならば、我々の首は今ここになかったであろう」と述べたとする逸話がある。


一方で、同じ幕臣であった勝海舟には「眼中ただ徳川氏あるのみにして、大局達観の明なし」とかなり厳しい評価をされている。これは、戊辰戦争において江戸開城の恭順派であった勝と主戦派であった忠順の対立が含まれていると思われる。


大隈重信は忠順を高く評価していたが、大隈の後妻の綾子の実家の三枝家は小栗家の親戚であり、綾子自身も忠順の父・忠高の世話になったことがある。

東郷平八郎日露戦争後、自宅に国子と結婚し小栗家を相続した貞雄と息子の又一を招き、「日本海海戦に勝利できたのは製鉄所、造船所を建設した小栗氏のお陰であることが大きい」と礼を述べたという。


フィクションにおける小栗忠順編集

NHK関連編集


民放ドラマ編集


小説編集

  • はんぱもの維新

星新一作。


漫画編集

  • 天涯の武士

木村直己作。

関連動画編集

小栗忠順の有能さが分かる動画


関連リンク編集

江戸幕府 幕末 奉行 佐幕

徳川埋蔵金

  • 三野村利左衛門…三井家中興の祖。元は小栗家の中間(家付きの商人)。また、維新後に避難させた忠順の妻・道子と遺腹の娘・国子を引き取って面倒を見ている。
  • 小栗かずまた…直系の子孫。玄孫。本名は又一郎。
  • wikipedia

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