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概要編集

渾名:小栗上野介、又一


文政10年6月23日(1827年7月16日)~慶応4年閏4月6日(1868年5月27日

幼名は剛太郎。父は禄高2,500石の旗本・小栗忠高。

父を誤診により失った28歳の時に家督を継ぎ、30歳で御遣番となった。以後、遣米使節の監察外国奉行勘定奉行南町奉行軍艦奉行を歴任。ちなみに斬首に処されるまでの10年間で何度も要職を務めては辞めてを繰り返している

大政奉還後に罷免されて隠遁した後、薩長軍に追討令を出される。その後捕えられて斬首に処された。享年40。


遣米使節編集

安政7年(1860年)、小栗は遣米使節の監察としてアメリカサンフランシスコへと旅立った。

  • この際、アメリカ人から使節団の代表と勘違いされたという(正使は新見正興)。これは新見をはじめ他の面々が外国人慣れしていなかった中で、小栗は詰警備役として外国人との交渉に慣れていたがため。
  • また、「日本はスパイを使節として同行させてるのか」と嫌疑をかけられたことがある。この際も小栗は「目付というのはケンソル(監察官)だ」と主張して切り抜けたという。
  • フィラデルフィアでは通貨の交換比率見直しの交渉を行った。小栗は金貨の分析実験を行い、日本側の主張の正しさを証明して見せたものの、改正自体には至らなかった。だが、アメリカの新聞はこの小栗の交渉を絶賛した。
  • 小栗は海軍工廠の見学に行った際、その技術に驚嘆してネジを持ち帰っていった。

その後小栗は別の船に乗り換えたうえで大西洋を渡り、品川へ戻っていった。帰国後、小栗はこの功により禄高を200石加増され、外国奉行に就任する。

ポサドニック号事件編集

文久元年2月3日(1861年3月14日)、ロシア帝国軍艦対馬占領するポサドニック号事件が発生。5月7日(6月14日)、外国奉行の小栗は咸臨丸で現場の対馬に派遣される。10日、14日、18日の3回に渡り小栗は艦長と会談を行った。

第2回会談で小栗は「ロシア兵の無断上陸は条約違反」であるとして抗議を行う。4日後の第3回会談で藩主との謁見を求める艦長に対し、小栗は「(謁見を認めたらロシア兵の対馬居留を認めることになるので許可できない、と老中安藤信正から言われたので)謁見はできないと回答。艦長は「話が違う」として猛抗議したが、対する小栗は「私を射殺して構わない」と言って押し切ったという。20日に江戸へと戻った小栗は老中に

  • 対馬を直轄領とする。
  • 事件の折衝は正式の外交形式で行う。
  • 国際世論に訴え、場合によってはイギリス海軍の協力を得る。

などを提言したが、受け入れられずに小栗は7月に外国奉行を辞めてしまった。だが8月、イギリスの圧力でポサドニック号は対馬から撤退することになる。


横須賀製鉄所横須賀造船所横須賀海軍工廠編集

慶応元年(1865年)、小栗の進言によりフランスの技師・レオンス・ヴェルニー首長として横須賀製鉄所が開設される。この時に月給制、社内規則、残業手当といった経営学や人事労務管理の基礎が日本に導入される。小栗は兵器・装備品の国産化を推進し、更なる軍事力強化のために力を尽くした。

ちなみに造船所で使われたスチームハンマーは幕府が倒れて100年以上経過した平成の世(2000年)まで現役で稼働、艦船整備のためのドライドックの方に使われているものに至っては米軍基地内の施設としていまなお現役である。


経済編集

経済面でも小栗は施策を打ち出す。資本の少なさから日本商人が海外貿易で不利益を被っていることを受け、それを解決するために小栗は日本最初の株式会社「兵庫商社」を慶応3年(1867年)に設立。8月には日本初の本格的ホテル築地ホテル館の建設を開始し、翌年に完成させる。


横浜仏蘭西語伝習所編集

製鉄所開設をきっかけに日本初のフランス語学校・横浜仏蘭西語伝習所が設立される。この学校は本場のフランス人講師を招いた本格的な授業が行える学校で、第1期生として小栗の養嗣子で渡米直前に迎え入れた養女の許嫁・忠道(駒井朝温の次男)も通っていた。


評価編集

近年その類稀なる外交能力、内政実務能力が評価され、「坂本龍馬がいなくても幕末は語れるが、小栗がいないと幕末は語れない」とまで豪語する学者まで現れるほどである。

攘夷志士薩長の史観ではなく、江戸幕府から見た史観では偉人であり、小説家の司馬遼太郎は著書において「明治の父」と絶賛した。

そもそも明治政府が行った近代化政策は、江戸幕府の時点で小栗も唱えていた。問題は、旧態依然が著しい江戸幕府にはそれを行える力がなく、それには小栗自身も「一言で国を滅ぼす言葉はどうにかなろうの一言なり。幕府が滅亡したるはこの一言なり」と嘆いている。

また、慶喜が恭順を決めた為に実行されなかったが薩長への徹底抗戦を訴えた際には「箱根の隘路に陣を構え敵の足を止めている間に東海道の敵の本隊を駿河湾から艦砲射撃で攻撃する」という作戦を立案しており、戦後にそれを聞いた大村益次郎は「それが実行されていたならば、我々の首は今ここになかったであろう」と述べたとする逸話がある。


一方で、同じ幕臣であった勝海舟には「眼中ただ徳川氏あるのみにして、大局達観の明なし」とかなり厳しい評価をされている。これは、戊辰戦争におけて江戸開城の恭順派であった勝と主戦派であった小栗の対立が含まれていると思われる。


創作物編集

小説編集

星新一『はんぱもの維新』・・・主人公


漫画編集

木村直己『天涯の武士』・・・主人公


小栗忠順を演じた俳優編集


関連動画編集

小栗忠順の有能さが分かる動画


関連リンク編集

江戸幕府 幕末 奉行 佐幕

徳川埋蔵金

  • 三野村利左衛門⋯三井家中興の祖。元は小栗家の中間(家付きの商人)。また、維新後に避難させた小栗の妻と娘を引き取って面倒を見ている。
  • 小栗かずまた(直系の子孫。玄孫)
  • wikipedia

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