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大坂夏の陣

おおさかなつのじん

大坂夏の陣とは、1615年から始まった江戸幕府と豊臣家(羽柴宗家)との間で行われた合戦
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概要編集

これまでの経緯編集

大坂冬の陣を参照


夏の陣編集

慶長20年(1615年)3月、既に抵抗力の殆どを失った豊臣家に対し、家康は浪人衆が不穏な動きをしているとし、最後通告として、秀頼の大和奈良)か伊勢三重)への移封と浪人たちの追放を要求するも、淀を中心とする豊臣側は断固拒否。これを受けて幕府軍は再び大阪城攻撃のために出陣し、4月に戦闘が始まった。

豊臣勢約5.5万に幕府勢は約15.5万。豊臣勢は浪人ばかりであったため統率が乱れ、厭戦気分も広まっていた。

5月5日に家康と秀忠が到着した時には豊臣勢の攻勢は弱まって後退が続いていたが、7日に信繁・又兵衛・勝永たちによる決死の攻勢が仕掛けられ、戦国有数の最大級にして最後の兵力と火力が集中した激戦となった。とくに信繁は家康のいる本陣にまで分け入り、家康自身もうろたえたほどだったが、討ち取るまでには至らず、一時撤退して休息していた所を討ち死にとなった。

豊臣勢の主力部隊は壊滅し、幕府勢は続々と大阪城へ雪崩れ込んだ。この間に治長は千姫と淀君の妹であるを脱出させ、二人は徳川秀忠の下へ生還。千姫は治長の意を受け家康と秀忠に淀殿と秀頼の助命嘆願をする。しかし、武士の世界において「多くの家臣や兵士達を犠牲にして落城寸前まで抵抗した者が助命嘆願をするのは恥」とされており、更には幾度にも及ぶ臣従要求や降伏勧告の全てを拒絶し続け、家臣や兵士達、浪人達、更には民衆達まで巻き添えにしていた以上、助命嘆願が認められるはずも無く、家康に判断を任されていた秀忠は、大阪城への総攻撃を命令。天守閣は炎上し、その炎で大坂の空が照らされる様が京都からも見えたという。翌朝、立てこもっていた山里丸の倉を包囲された淀殿と秀頼は火を放ち、勝永の介錯で自刃した。


かくして大阪城は落城し、豊臣家は滅亡した。


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