概要
安土桃山時代から江戸時代にかけての武将で、後の江戸幕府第二代征夷大将軍(在任期間は1605年~1623年)。初代将軍・徳川家康の三男で、母は家康の側室・於愛の方(三河の有力国人の西郷家出身。幕末の会津藩家老、西郷頼母の血縁)。同母弟に松平忠吉がいる。
妻は、とくに浅井三姉妹の三女・江が有名。江との間に千姫、徳川家光、徳川忠長、徳川和子(東福門院)などがいる。また、保科正之の父でもあるが、母親である浄光院が室として迎えられなかったため、名目上は「保科正光の子」とされたという。
生涯
出生と元服~豊臣政権時代
天正7年4月7日(1579年5月2日)。徳川家康の三男として遠江国浜松に誕生する。
幼名は長松丸もしくは長丸。
長兄・松平信康が武田勝頼との内通を家康や織田信長に疑われ切腹。次兄・於義丸も羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)との同盟のための人質として養子に出されたことから、三男でありながら長松丸は徳川家の嫡子となった。
天正18年(1590年)、小田原征伐の際に人質として上洛し、同時に元服。その際、豊臣秀吉に謁見すると同時に偏諱を受け祖父・松平広忠の忠と組み合わせて「秀忠」と名乗る。ちなみにこの時期までに生母の西郷局も継母の旭姫も亡くしているが秀忠は両者に孝養を尽くしたという。のち織田信雄の娘・小姫を娶るが、信雄が秀吉との仲違いで改易されたため、小姫と離縁し独り身となる。ただし、小姫は秀吉の養女として嫁いだいわば豊臣と徳川の婚姻同盟であるため、信雄の不祥事で婚姻同盟を破棄するのは話が成り立たないという反論もあり、正式に秀忠の元に嫁ぐ前に死去したのが実情だとも考えられる。文禄4年(1595年)、秀吉の養女であり同じく夫・羽柴秀勝(秀吉の甥)を亡くし独り身だった浅井三姉妹の三女である崇源院(お江)と再婚する。
豊臣政権下では前田利長と共に中納言に任官され「江戸中納言」と呼ばれた。
関ヶ原の戦い
従来の通説
慶長5年(1600年)に起きた関ヶ原の戦いでは、徳川家の譜代家臣三万八千を率いて、中山道にて信濃方面を制圧してから美濃へ出て、父・家康が率いる諸大名と合流して石田三成率いる西軍と戦う予定であった。
…が、真田昌幸・信繁父子が立てこもる信濃上田城の攻略でもたついている間に、早期決戦へと方針転換した家康が美濃へ急行し、天候に阻害されつつ連絡を受けた秀忠軍も急いで美濃へ向かうが、その間に家康率いる東軍は小早川秀秋らの離反で崩壊した西軍を破っていた(9月15日)。そのせいで、大津にて9月20日、ようやく家康の下に合流するも、当日は「気分がすぐれない」とすげなく面会してもらえなかったという。
家康とその側近もこの失態を看過できず、一時は真剣に家督を武勇に優れる次男・結城秀康か四男・松平忠吉に変更しようとしたらしいが、重臣の大久保忠隣が「これからは平和な時代になるので、文と智を兼ね備えた秀忠様が一番ふさわしい」と主張し、何とか廃嫡だけは免れた。
現在の通説
……と言う説が長く支持されていたが、近年の研究では、最初から秀忠は、上田を始めとする信州攻略を命じられており、関ヶ原に向かう予定ではなかったとする説が有力。秀忠は、別働隊として、石田に味方する武将を各個撃破する作戦であったという。そもそも、関ヶ原での戦いが1日で決着がつくとは当の家康自身含めて誰も予想していなかったため、それに間に合わなかったのを遅参と言うのはあまりに無理筋である。
実際、秀忠の軍に属していた青山忠成や内藤清成などは、上田合戦の功績により、所領を大幅に加増されている。
秀忠が叱責されたのは事実であるが、それは(すでに関ケ原の決着がついて急ぐ必要はなかったのに)急ぎすぎて軍を疲れさせたためであり、遅参が原因ではない。
なお、大河ドラマ「真田丸」では、この説に基いて上田合戦を描いている。
江戸幕府成立後
慶長8年(1603年)、家康が征夷大将軍に任じられ、江戸幕府が成立。
その2年後の慶長10年(1605年)、将軍職の世襲化をアピールするために、早々に秀忠が第2代征夷大将軍に任じられる。
同時に家康は江戸を離れ、幼少の頃を過ごした駿府城へと移るが、以降も「大御所」として朝廷・外様大名・外国との折衝を担当し、秀忠は本多正信や大久保忠隣の補佐を受け徳川家内部の統治を担当した。要するに実際の実権は将軍職を辞したにも拘わらず、相変わらず家康が握っていたのである。とはいえ、家康としても死ぬまで権力を握り続けるつもりはなく、以後は徐々に秀忠に政務を譲っていくこととなる。
秀忠は、徳川との縁が深く、それゆえ統制も難しくない譜代大名に対する統治を担当し、家康はまだ徳川に心から服さない者もいる外様大名の主に担当した。家康が外様に睨みを効かせている間に、秀忠は自身の直属となる軍を整備していき、外様大名に対する統率の準備を進めていくこととなる。
この時期、秀忠の娘である千姫を、千姫の従兄(浅井三姉妹の関係から秀忠は義理の甥に当たる)である豊臣秀頼に輿入れさせているが、その秀頼と二条城で会見したのも将軍・徳川秀忠ではなく家督を秀忠に譲った大御所・家康である点が何より分かり易い(慶長16年(1611年)、二条城の会見)。そして家康は自身が存命中に、秀忠の後継者として利発な次男・国松(後の徳川忠長)ではなく、当時は知能の発達が遅れ吃音の癖があったとされる長男・竹千代(後の3代将軍・徳川家光)を指名している。もっとも、これには「長幼の別」という儒教独特の考え方があり、家督を継ぐにあたり長男を優先することにより分裂を避ける冷徹な思考からきている。
大坂の陣~死去
慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件を始めとして、家康と秀頼(というかむしろ淀殿)との関係が険悪化してきたことから、豊臣家と関係が深い外様大名と親しい大久保忠隣が家康により改易され、大坂の陣が勃発する。慶長20年(1615年)夏の陣の際には大野治房によって本陣を脅かされるが何とか持ちこたえ、大坂側の敗北が鮮明になると、敗れた義姉と娘婿が自害し、戦乱の世は終わりを告げた。
その翌年の元和2年(1616年)に家康が没し、側近の酒井忠世や土井利勝らを率いて幕府の全権を握り、家康時代に定められた武士に対する法である『武家諸法度』、朝廷と公家に対する法である『禁中並公家諸法度』、寺社仏閣を管理する『寺社諸法度』を厳格に適用し、江戸幕府と将軍の権威を飛躍的に高めた。
また、年の離れた弟達を尾張、紀伊、水戸に封じて御三家体制を確立すると、実子である徳川忠長を駿河に配置し、その一方で、弟の松平忠輝や甥(秀康の息子)兼娘婿の松平忠直、本多正信の息子である本多正純、福島正則をはじめとする多数の譜代、外様大名を取り潰して、大名の配置を一変させた。正純に関しては秀忠の暗殺を企てたと噂の宇都宮城釣り天井事件も参照の事。これによって衝突の絶えなかった大久保忠隣の孫である大久保忠職が加納城に大名として復帰。また、忠直改易後には忠直の弟・忠昌に68万石の領地のうち50万石を与えて再興させている。また、五女・和子を後水尾天皇の御所に中宮として入内させ、皇室の外戚となることも狙う。
元和9年(1623年)、嫡男・徳川家光に将軍職を譲ってからも江戸城西の丸に移り、父・家康と同様に大御所として実権を握りつづける。寛永7年(1630年)、外孫である女一宮が明正天皇に即位し、外戚(皇室の血縁)となる。
寛永8年(1631年)、将軍・家光は不行跡を理由に弟・忠長を改易・蟄居とし、このころから体調を崩した秀忠は翌寛永9年(1632年)1月に死去する。
秀忠の没後、忠長は兄に自刃を命じられた。
人物
武将として
「武将」としては、高い評価をされていない。
異母兄の結城秀康、同母弟の松平忠吉などが武名で高い評価を受けていることも要因の一つでもあるが、何より、上田城で真田昌幸に大敗した、その結果「関ヶ原の戦い」という大一番に遅参してしまった、それによって家臣団にも嫌われていた……と言う説が長年広まっていたため、これを元にして悪評を受けている。
現在の研究ではこの説は、100年以上後に書かれた伝記『烈祖成績』に語られるのみである、と言う事が分かっており、ほぼ否定されているが、長年染み付いたイメージは、そう簡単には覆るものではない。
ただ、結果的に「天下分け目の大一番となった戦いに参加できなかった」と言う点は事実であり、当人もこれは気にしていたようである。その結果、大坂の陣では逆に強行をして兵を疲弊させたことが原因で家康に叱責されている。
また、上田合戦に関しては、大敗を喫したと言う当時史料こそないものの、逆にそれを覆しうる史料も存在していない。実際の所、上田城で戦っていたのはたったの3日で、その間に謀将・真田昌幸の守る城を落とせ、と言うのは、秀忠でなくとも無理難題であるのだが。
最も大きいのは、こうした従来説を覆しうる武功が存在しない、と言う点だろう。
これまで語られていた失態が実は偽りだったとしても、それは功績がマイナスから0になるだけで、プラスに転じる訳ではない。
そうなるとアピールポイントに欠けてしまい、従来の風評を覆すのは難しい。
なお、指揮の際には前線近くに立つ傾向があったらしく、遺骨からは銃創が複数見つかっているとの事。上記の如く、大坂夏の陣でも大野治房に自らの本陣を突かれた折には槍を取り軍勢に向かっている。
その他、「徳川家」という巨大なバックにより初陣の頃から大軍・精鋭を率いた事しかないので、一武将として目立つことが難しかったという意見も存在する。慶長6年(1601年)より兵法指南役として秀忠に仕えた柳生宗矩から柳生新陰流免許皆伝の印可を授かっているが、結果的に大坂の陣での武功には繋がらなかった。
そもそも秀忠が元服したのは天正18年(1590年)と、もう戦国時代が終わりかけている時期である。各地の戦国武将は、豊臣家に服属して日本は統一された状態にあり、秀忠が元服した後に起こった大きな戦は、朝鮮出兵と関ケ原の合戦くらいしかない。このように、時期的に武将として名を上げるのも難しかった。
政治家として
むしろ、秀忠の本領は執政にあり、関東経営を上手くこなし家康が中央で安心して活動できる下地を作ったり、江戸幕府の基礎を固め、大名の移封と改易を繰り返し、朝廷や寺社にも介入を行った。武家諸法度と禁中並公家諸法度、寺社諸法度も、家康と秀忠が制定したものである。
総じて黙々と政務をこなす、当時としては稀少である生真面目な性格が彼を将軍の高みへと昇らせたといっても過言では無かろう。戦争による領土拡大に力を注ぎすぎた武田勝頼、上杉景虎との後継者争いで国力を疲弊させた上杉景勝といった2代目たちを見れば秀忠の「優秀さ」が際立つ。関ヶ原の戦いでそつなく景勝の牽制をこなし、他武将からの評価も高かった兄・秀康の方が、乱世を生き抜く「戦国武将」としての資質は高かったのかもしれない。しかし秀忠は、戦いの無い世において民に必要とされる資質を持っていたことは確かである。
大坂の陣にて灰燼と化した大坂城を元の場所に普請したのも秀忠の功績の一つである。さもなければ大坂は北条征伐にて国家機能を横浜や鎌倉へと移転させられた現在の小田原のような位置付けになっていなくても不思議ではなかったのであるが、ともあれ、江戸年間においても徳川家への崇敬というものは関八州から出ると低く、故に現代でも秀忠が大坂の恩人である事を知る人間は少ない。
創作では
「武将」としては、高い評価をされていない。
…と同じ書き出しにしてしまうのは、創作作品の各コンテンツにおいては武将の方が政治家よりも見栄えがして人気があるからである。そのため、武勇での活躍の少ない秀忠は必然的に影が薄くなってしまう。
また、後世(早ければ江戸中期)における真田幸村をはじめとした真田一族を題材にした英雄譚が流行し、そうした作中では真田家と対峙した秀忠は概ね敵役として描かれ、加えて史実における戦での失態も相まって負のイメージが強調されてしまう例も少なくない。
その上、彼の有能な部分である「政治家」としての面についても、功績に反してあまり評価が高くない。
まず、初代として幕府を開いた家康と、参勤交代や鎖国令と言った制度を実行に移し幕藩体制を確立した家光の間に挟まれた秀忠は、徳川幕府の基礎を築いた三代目までの中でも「優秀な中継ぎ」的なイメージが強く、印象が地味になりがちである。
さらに、退位した後も大御所として辣腕を振るった家康の威光があまりに強いため、秀忠の功績であっても家康生存時の功績は家康の功績とみなされる事が多い。
そして何より、彼の政治家としての素質は「官僚的」な面が大きく、その本質はいわば「キツく締める所は締める」「下を甘やかさない」と言う点にある。
移封・改易・寺社介入と言った彼の政治面的功績は、「幕府のためには間違いなく必要だが、どちらかと言えば嫌われ仕事」と言った性質であり、有能であれば有るほど、周囲の評価の低下に繋がったとも言える。
そのため…
- 関ヶ原の戦いでは真田昌幸のせいで遅刻した。
- その失態のせいで家康から家臣団の前でこっぴどく叱責された。
- 養子に出された兄・秀康に後継ぎを取られかけた。
- 二代将軍になるも、家康の生前は実権をすべて握られていた。
- 3歳年上の妻・お江の尻に敷かれる恐妻家だった。
- 家康は秀忠よりその子・家光を評価していた。
- その家光には嫌われていた。
…などなど、中傷まがいの扱いを受ける事が多い。特に『葵徳川三代』では遅参のシーンが陰鬱かつ丁寧に描かれ、さらにこれと対をなす形で大坂の陣では急ぎすぎ、家康に
「あほー!! わずか十七日で、十万の大軍を上洛させるとは、無謀この上なし! クタクタに疲れきった兵士と口から泡を噴いた馬が戦の役に立つか!」
「関ヶ原では間に合わず、大坂では早すぎる、物笑いの種じゃ...たわけドジまぬけーーーーーー!!」と罵られると散々に描かれている。しかもこの台詞、同作の名セリフとして記憶されている。悲惨である。
一方で隆慶一郎の書く秀忠は、「一見大人しいが実は残忍卑劣」という強烈な存在感を放つキャラクター付けをしていることが多い(『かぶいて候』では世間で言う誠実なイメージの秀忠が登場している)。
『信長の野望』などのシミュレーションゲームでは、武将としては強くないが、政治能力は高い、内政や交渉向けの能力になるのが基本。ただし生まれた時期が遅いため、彼が登場する前に全国統一している場合が多い。
影武者徳川家康
父・家康に対して表面上は従順ながらも内心では毛嫌いしており、いつか主権を握ろうと目論む野心家として描かれている。
父が関ヶ原で討ち死にし、影武者(世良田二郎三郎)がその代役を務めている事実を知って以降、自身の参謀となった柳生宗矩と共に二郎三郎らと対立し、表向きは親子を演じつつ彼に無理難題を押し付ける。石田三成の遺志を聞き入れ島左近とともに何とか豊臣家を存続させようと奮闘する二郎三郎たちとは逆に、豊臣家を取り潰そうと行動するが、二郎三郎と対立することにより、彼自身も政治的に無理をしないことを学んでいくことになる。
秀吉の活
豊臣秀吉の一生の節目を描いた作品で、秀忠は秀吉の晩年に僅かに登場するだけ。
秀忠を秀康共に文武で優れた徳川の後継として、秀吉が警戒する描写があり、秀忠をかなり好印象に描いている。
戦国無双シリーズ
詳細⇒徳川秀忠(戦国無双)
SAMURAI DEEPER KYO
紅虎という偽名を使っている。詳細はそちらの項目を参照。
殿といっしょ
へうげもの
生真面目な2代目という史実に近いキャラ付けがされており、主人公の古田織部とは親しい間柄。
センゴク
こちらでも生真面目な二代目扱いだが、主人公の権兵衛が史実で関ケ原の戦いでの遅参をかばってくたので、その恩義に征夷大将軍になってから彼に報いたというエピソードから最終章の重要人物となった。
まずは小田原合戦時に陣借りがうまくいかなかった権兵衛がイライラして河原で石をけろうとしたところで幼少期の秀忠と鉢合わせ、その時の自分の不満に権兵衛が耳を傾けてくれたことから縁ができ父家康に仙石隊の陣借りを乞う。
その仙石家が大名に復帰し関ケ原の戦いで東軍となり秀忠の支援役となったところ、秀忠の部下が真田の挑発に乗り権兵衛の忠告よりも先に突撃し大敗してしまい、実質的な初陣である上田合戦で大敗という大失敗をしてしまう。
何とか秀忠は仙石家の拠点である小諸城に撤退したがすっかり意気消沈してしまい、同道した側近も尻込みしてしまう有様を見た権兵衛は彼に気分転換のために風呂を勧める。そして一緒にふろにつかり「今回は部下が暴走したのにその汚名は自分が被ることになってしまった。大名っていいことないのでは」としょぼくれる秀忠に「それが大名というものだ。大名というものはいいところはあまりない。それを辛抱強くやり切るのが家康のすごいところだ。」「あの家康だって昔は激情に駆られて失敗したこともあった。今は日本で最も辛抱強い男だが。」と秀忠が生まれる前の父の姿を語り聞かせ同じく大失敗を経験した人間として励ます。そして秀忠に上田城を無視して関ケ原に赴くよう進言して彼を立ち直らさせた。
そして関ケ原が東軍の勝利となり論功のため徳川親子に会見した際に家康に秀忠を立ち直らさせてくれたことを評価され「自分はすでに覚悟しているが、秀忠はこれから天下人として周囲の重圧につぶされそうになるだろう。そういうときに彼の苦労を知り気軽に話せる人間として支えてほしい」と権兵衛は秀忠のことを任される。
その後秀忠は家康の後継ぎとして江戸幕府を堅実に運営する後継者として成長。権兵衛が没するまで彼のことを重宝していた。
大河ドラマ
タイトル | 年 | 演者 | 備考 |
---|---|---|---|
樅ノ木は残った | 1970年 | 二代目中村又五郎 | 秀忠大河ドラマ初登場 |
春の坂道 | 1971年 | 青山哲也 | |
おんな太閤記 | 1981年 | 佐藤佑介 | |
徳川家康 | 1983年 | 勝野洋 | |
独眼竜政宗 | 1987年 | 勝野洋 | 『徳川家康』と同じ演者 |
春日局 | 1989年 | 中村雅俊 | |
琉球の風_DRAGON_SPIRIT | 1993年 | 岸谷五朗 | |
葵徳川三代 | 2000年 | 西田敏行 | 秀忠大河ドラマ初主役 |
武蔵MUSASHI | 2003年 | 二代目中村獅童 | |
功名が辻 | 2006年 | 二代目中村梅雀 | 西田敏行が父の家康を演じた |
天地人 | 2009年 | 中川晃教 | |
江〜姫たちの戦国〜 | 2011年 | 向井理 | 岸谷五朗が秀吉を演じた |
真田丸 | 2016年 | 星野源 | |
どうする家康 | 2023年 | 森崎ウィン |
関連人物
≪両親≫
≪兄弟・姉妹≫
≪妻≫
≪子≫
関連タグ
- 曹丕…偉大な初代の後を継いだ2代目で名君な割に評価が低いという共通点があり、肉親に酷薄だった点は半分共通して半分共通しない。只、曹丕が早くに病没してしまったこともあって政権の基盤を固めきれなかったのと対照的に、秀忠は政権基盤を大いに強固にする事に成功している。
- 足利直義…秀忠同様、軍事よりも政治面で評価される人物。但し将軍の弟。