第一次上田合戦
背景
時は戦国時代、真田昌幸は天正壬午の乱にて徳川家康に従って家康との同盟を破棄した北条氏直の軍勢の撃退に貢献。その後、徳川と北条は再び同盟を締結した。
この同盟において、「上野は北条軍の切り取り次第」という条項があった。真田領沼田城は上野に位置していたため、家康は昌幸に沼田城を北条に引き渡すように命令。
昌幸からすれば、沼田城は武田勝頼の存命中に彼のもとで北条軍から奪取した城であるため、北条に引き渡すことは到底できなかった。
そのため昌幸は徳川から離反し、徳川や北条と敵対していた上杉景勝に臣従した。景勝は、昌幸の旧主武田勝頼が存命中に同盟を締結しており、勝頼の異母妹・菊姫は景勝の正室だった。そうしたこともあり、昌幸は景勝に親近感を抱いていたのだ。
その後、徳川軍は真田領へと侵攻した。
合戦勃発
鳥居元忠を総大将とする大久保忠世や平岩親吉ら徳川軍は、真田家の本拠地・上田城に対する攻城戦を開始。
上杉の援軍を借りた昌幸は、籠城戦にて徳川軍を迎え撃った。
徳川軍は二の丸まで侵攻したものの、真田軍による反撃により撤退。しかし、徳川軍は撤退戦でも真田軍による追撃により次々と討ち取られていき、結果1300名もの徳川兵が戦死した。それに対し、真田兵の戦死者はわずか40名だった。
その後
真田、上杉と徳川は豊臣秀吉に臣従し、一連の対立は終了した。だが、秀吉に従わなかった北条氏は北条征伐に遭い滅亡。日本は秀吉のもと天下統一され、大名間の争いは終結した。
第二次上田合戦
背景
天下統一を果たした秀吉であったが、老齢に伴い判断能力が鈍るようになった。そんな中、弟・秀長の病死によりそれは悪化し、秀吉は朝鮮出兵や秀次事件といった失策を犯すようになった。
これにより豊臣政権は没落し、秀吉の死後はさらに没落。これを好機と見た徳川家康は豊臣政権の乗っ取りを目論む。しかし、上杉景勝はそれに反対。直江状を家康に送りつけて抗議した。
だが家康は会津征伐を決行し、景勝を討とうと決意。当初、真田家は有利と見られていた徳川方についた。
だが、畿内にて毛利輝元率いる西軍が打倒家康を掲げて挙兵したことにより、必ずしも家康率いる東軍が有利とは言えない状況に陥った。これに伴い真田家は東西どちらが勝利しても家が存続するようにと、一家を東西両軍に分裂させることをあえて決意した。昌幸(正室・山手殿は西軍の石田三成の義姉)と次男・信繁(正室・竹林院は西軍の大谷吉継の娘)は西軍に味方し、昌幸の嫡男・信幸(正室・稲姫は徳川家重臣・本多忠勝の娘)は東軍に味方することになった。
家康本軍は、関ヶ原へと進軍。別働隊の徳川秀忠(家康の嫡男)率いる軍勢は上田城へと向かった。
合戦勃発
秀忠軍の中には真田信幸もいた。他には、本多正信や榊原康政なども参陣していた。
昌幸は、秀忠軍と家康本軍の合流を防ぐべく、時間を稼ぐために降伏を偽装。昌幸の降伏が偽物だと分かった秀忠は大軍で上田城を攻めるが、反撃に遭い攻略できなかった。
その後、家康による合流命令を受けた秀忠は抑えを残して関ヶ原方面へと向かうも、合流が達成されないまま東軍が関ヶ原の戦いにて勝利した。
そのため、真田昌幸は「戦闘」には勝ったが「戦争」には負けたのだ。
その後
昌幸は二度も徳川軍を撃退した人物として有名になった。だが関ヶ原の戦いを制した徳川家康による処分を受けることとなり、信幸、本多忠勝や井伊直政による助命嘆願により死刑は免れ、昌幸は信繁と共に九度山にて蟄居するように命令が出た。
その後真田家は信幸改め信之が継ぎ、彼の流れを組む真田家は江戸時代にて大名として存続できた。
昌幸は、九度山にて死去。その後信繁は徳川との最終決戦に挑むことになる。