上田合戦
うえだがっせん
背景
時は戦国時代、真田昌幸は1582(天正10)年に起きた天正壬午の乱にて徳川家康に従い、家康との同盟を破棄した北条氏直の軍勢の撃退に貢献。その後、徳川と北条は和睦とともに再び同盟を締結したが、この同盟において「上野は北条軍の切り取り次第」という条項があった。真田領沼田城は上野に位置していたため、1585(天正13)年に家康は昌幸に沼田城を北条に引き渡すように命令。昌幸からすれば、沼田城は武田勝頼の存命中に彼のもとで北条軍から奪取した城であるため、北条に引き渡すことは到底できなかった。
そのため昌幸は徳川から離反し、徳川や北条と敵対していた上杉景勝に次男の信繁を人質に送り臣従した。景勝は、昌幸の旧主武田勝頼が存命中に同盟を締結しており、勝頼の異母妹・菊姫は景勝の正室だった。そうしたこともあり、昌幸は景勝に親近感を抱いていたのだ。
背景
天下統一を果たした秀吉であったが、老齢に伴い判断能力が鈍るようになった。そんな中、弟・秀長の病死によりそれは悪化し、秀吉は朝鮮出兵や秀次事件といった失策を犯すようになった。
1598(慶長3)年、秀吉の死により豊臣政権は凋落。これを好機と見た徳川家康は豊臣政権の乗っ取りを目論む。しかし上杉景勝はそれに反対、直江状を家康に送りつけて抗議した。
それに対し家康は1600(慶長5)年7月に会津征伐を決行し、景勝を討とうと決意。当初、真田家は有利と見られていた徳川方についた。
だが畿内にて毛利輝元率いる西軍が打倒家康を掲げて挙兵したことにより、必ずしも家康率いる東軍が有利とは言えない状況に陥った。これに伴い真田家は東西どちらが勝利しても家が存続するようにと、一家を東西両軍に分裂させることをあえて決意した。昌幸(正室・山手殿は西軍の石田三成の義姉)と次男・信繁(正室・竹林院は西軍の大谷吉継の娘)は西軍に味方し、昌幸の嫡男・信幸(正室・稲姫は徳川家重臣・本多忠勝の娘)は東軍に味方することになった。
合戦勃発
8月24日、家康の三男・秀忠率いる3万8千の軍が下野宇都宮を発し、中山道を西へ向かった。秀忠の軍は信幸の他、本多正信や榊原康政など徳川譜代の将で構成されていた。
昌幸は、秀忠軍と家康本軍の合流を防ぐべく、時間を稼ぐために降伏を偽装。昌幸の降伏が偽物だと分かった秀忠は9月5日から上田城を攻めるが、反撃に遭い攻略できなかった。
9月8日に家康による合流命令を受けた秀忠は抑えを残して関ヶ原方面へと向かうも、合流が達成されないまま東軍が関ヶ原の戦いにて勝利した。
そのため、真田昌幸は「戦闘」には勝ったが「戦争」には負けたのだ。
その後
昌幸は二度も徳川軍を撃退した人物として有名になった。だが関ヶ原の戦いを制した徳川家康による処分を受けることとなり、信幸、本多忠勝や井伊直政による助命嘆願により死刑は免れ、昌幸は信繁と共に紀州九度山にて蟄居するように命令が出た。
その後真田家は信幸改め信之が継ぎ、彼の流れを組む真田家は江戸時代にて大名として存続できた。
昌幸は1611(慶長16)年に九度山にて死去。その後信繁は徳川との最終決戦に挑むことになる。