生没年:不明~慶安2年5月18日(1649年6月27日)
概要
戦国武将である真田信繁(幸村)の妻(正室)であり、豊臣家の家臣である大谷吉継の娘とされており、妹あるいは姪という説もある。
小田原征伐前後、もしくは父の吉継が病に伏し、豊臣政権から離脱したとされる直前の天正年間に、信繁に嫁いだとされ、当時の彼は人質として豊臣秀吉のもとに遣わされていたことから、秀吉の上意による政略結婚とみられている。
豊臣家の有力奉行であった吉継の縁者との結び付きは、豊臣政権下における真田家の基盤強化に大いに貢献することとなった。
関ヶ原の戦いにおいては父の吉継に保護され、戦いの後に九度山に幽閉され厳しい生活に苦しみながらも、献身的に夫や家臣たちを支え、自身の子供たちだけでなく、側室の子も引き取って養育していたという。
伝承によれば上田地方の紬技術を応用し、有名な織物の紐である『真田紐』を考案し、家臣たちに行商させたとされている。
その後、大坂の陣にて信繁が没するまで彼に付き従い、夫が討ち死にしたことから子女と共に大阪城から落ち延び、紀伊で発見された後に京都の徳川家康に引き渡された。
その時に夫の信繁が豊臣秀頼から拝領し、大阪城に入城する直前に渡されていた脇差と金57枚は没収されるが赦免され、京都で隠棲していた石川貞清の妻である娘のおかねに保護され、その後は剃髪して僧籍に入り余生を過ごしたという。