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豊臣秀頼

とよとみひでより

安土桃山時代〜江戸時代初期の大名。豊臣秀吉の後継者で豊臣家の2代目当主となるが大坂の陣で滅亡した。
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豊臣秀吉淀殿の次男。安土桃山時代江戸時代の大名で豊臣家最後の当主。大坂の陣で徳川家康に敗北し自害した。


プロフィール編集

生没年:文禄2年8月3日(1593年8月29日)~慶長20年5月8日(1615年6月4日)

幼名:拾

通称:藤吉郎

極官:右大臣


父:豊臣秀吉

母:淀殿(浅井長政の長女・茶々)


淀殿の次子だが、長兄の鶴松は秀頼が生まれる前に亡くなった。秀吉は好色だったにもかかわらず、なかなか子供が出来なかったことから、父親は淀殿の乳兄妹である大野治長、もしくは石田三成だという噂もあった。


概要編集

秀頼の誕生後編集

秀吉は既に甥の秀次秀秋を養子にしていたが、秀頼が生まれた2年後に秀次とその正室・側室・息子・娘をほぼ全員殺している。また、この時秀秋も秀次に連座し切腹させられそうになった。のち秀次は小早川隆景の養子となり事実上豊臣家を追放処分にされていた。更には朝鮮出兵での活躍に対して反対に難癖を付けられ、大幅に減封され筑前国名島から越前国北ノ庄へ転封処分をされてしまう事になった。


父、秀吉の死後編集

父・秀吉が慶長3年(1598年)に亡くなった時はまだ5歳で、とても政治をとれる年齢ではなく、最も有力な大名であった五大老のひとり・徳川家康が大坂城西の丸に入り実権をふるうようになる。これに秀頼の後見役である前田利家らも不満を抱き徳川家と前田家が一触即発となる。利家死後は五奉行のひとり・石田三成が最も家康に反抗した。


三成は秀吉の信頼厚い有能な官僚ではあったが、武功はさほどなかったことから、官位・所領が低いうえ人望・器量も大きく家康に劣っていた。加えて三成自身の性格もあり嫌う人間も少なくなかった。その上、「朝鮮出兵」において補給を滞らせたこともあり三成を嫌っていた福島正則加藤清正黒田長政細川忠興浅野幸長池田輝政加藤嘉明藤堂高虎らは慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康に味方して徳川方の勝利に貢献した。その結果、豊臣家は三成を初め小西行長などの有力武将を失ってしまったうえ、各大名の領内に割り込ませていた直轄地(太閤蔵入地)を「恩賞」名目で諸大名に与えられてしまい、豊臣家は65万石を領する一大名に過ぎなくなった。


関ヶ原の戦い後編集

慶長8年(1603年)、家康は征夷大将軍に任じられた。豊臣側ではいずれ政権を秀頼に返すものと認識していたが、2年後、家康は三男・秀忠に将軍職を譲り、政権を渡さないことを明らかにする。もっとも、この時の秀頼の年齢はまだ10歳で、どの道政治など出来るはずも無いので、家康の判断が間違いだったとは言い難い。

また、それでも徳川家は、豊臣家との融和を図って、秀忠の娘・千姫を秀頼の正室に迎えるなどの政策も取られていた。一方、幕府の大名統制や公家統制の強化に従って、朝廷や上方の大名には秀頼に接近する動きがみられるようになり、太閤蔵入地も結局豊臣家の領地として機能していたという資料もある(福田千鶴「消えない秀頼の存在」『豊臣秀頼』)。

福田によれば秀頼と接した学者たちの記録は秀頼の有能さを伝え、家康は警戒を強めていったらしい。関ヶ原後も豊臣氏の西国大名に及ぼした影響力を重視する説は他にもある(渡邊大門『進化する戦国史』など)。


方広寺鐘銘事件編集

慶長19年(1614)8月、方広寺で大仏開眼供養会の実施が決定すると、家康が鐘の銘文に「国家安康」「君臣豊楽」と入れた件についての『方広寺鐘銘事件』が発生する。

なお、この事件は豊臣家を滅ぼす口実を作る為の難癖である、と言われる事が多いが、現在説では実際に銘文作成者に悪意があったと言う説が主流(詳細は大坂の陣などの記事を参照)。


そもそも、家康も最初から豊臣家を滅ぼそうとまではしていない。二条城の会見以降、秀頼が家康に対し臣下の礼を取った事実からも、家康は豊臣家を一大名という形で存続させようとしていた可能性が高く、その為の交渉も何度か行っていたようだが、うまくいかず、豊臣家の老臣である片桐且元に協力させても、やはりうまくいかなかった。

そこで、家康は謀臣・本多正信天海の献策によって、方広寺の鐘銘問題を利用する形で豊臣家を追及、9月18日に且元を通じる形で豊臣家に以下の3つの要求のいずれか一つに従う事を命令する。


①:秀頼が大坂を離れ、江戸に参勤すること

②:秀頼の母・淀殿が大坂を離れ、人質として江戸に詰めること

③:以上のいずれかの条件が承諾できない場合は、秀頼が大坂城を退去し国替えをすること


これらの三つの要求は、かつて秀吉が家康に行った事(大坂の秀吉の元に自ら赴き臣従を誓う、領地を三河から関東へ国替え、事実上の人質として家康は養子の名目で次男・結城秀康を秀吉に差し出し、秀吉は正室の名目で妹・朝日姫とその付き添いとして母・大政所を家康に差し出す)と殆ど変わりの無く、時世から見れば決して無理難題とも言えなかったのだが、淀殿を中心とする大坂城の強硬派は、且元が豊臣家を裏切ったと決め付け暗殺しようとしたことで且元の弟の片桐貞隆が応戦。これによって豊臣家を守ろうとしていた且元は、大坂城を出て家康側につかざるを得なくなった。


結局、最後の最後まで豊臣家の上層部は徳川家の要求を突っぱね続けた為に、徳川家は征夷大将軍としての威光を損なわせない為に、豊臣家と武力による決着を選ぶ事になってしまった。




大阪の役編集

慶長19年(1614年)冬、大坂の陣が起きる。

……のだが、豊臣家に引き立てられた諸大名はどこも秀頼に味方してくれず、豊臣家の家臣団に集まったのは真田信繁後藤又兵衛など浪人達で、ほぼ日本中の大名と戦うはめになった。

これは、秀頼に人望が無かったのではなく、豊臣家の実権を秀頼ではなく淀殿が握っていた事実に、諸大名達が不満を抱いたり、一大名同然にまで衰えてしまった豊臣家に勝ち目は無いと判断されてしまった事に起因しているとされている。

それでも10万にも及ぶ将兵が大坂城に入ったが、冬の戦いで一時的に講和したおり、外堀・内堀を埋められ、敗色が濃くなってからは約半数の将兵が城を出たとされている。


慶長20年(1615年)夏、講和条件に反したとして豊臣側が堀の再建を行おうとした結果、徳川側はそれを再戦の口実として出陣、豊臣側は城を出て家康の首のみを目指す戦いを強いられることとなった。秀頼は信繁ら前線で戦う武将からの要請を受け何度か戦場に自ら出陣しようとしていた事もあるが、度々母・淀殿に止められた結果、戦場に一度も出ることなく、徳川軍は大坂城に殺到し、天守閣も炎上。とうとう大阪城の山里丸の倉庫にまで追い詰められてしまう。

ここで、ようやく淀は敗北を認め、家康側に「秀頼の助命」の嘆願を大野治長と速水守時にさせているのだが、武士達の間では「落城するまで抵抗し続けたのに後になってから助命嘆願をするのは、武士として恥ずべき行為」と見なされており(三木城の戦い、小田原の陣、岐阜城の戦い等が例。尚、秀頼の外祖父の浅井長政も助命嘆願せず自決している)、ましてや「城兵」や「領民」ではなく倉庫に残された「秀頼」のみの助命という家臣や民を顧みない身勝手な要求であった事もあって徳川方(家康に判断を委ねられた秀忠)は拒絶。そして返答代わりに井伊直孝に銃弾を倉庫に撃ち込まれてしまう。


結果、秀頼は武士としての死を選び淀殿や真田大助(信繁の子)らと共に自刃。かつて天下を極めた豊臣家は2代にして終わった。



秀頼生存説編集

花のようなる秀頼様を

鬼のようなる真田が連れて

退きも退きたり加護島


大坂落城と共に豊臣秀頼が切腹したことについては各大名の記録に記載があるが、切腹の日付は錯綜しそもそも徳川方関係者は全て豊臣方からの伝聞で秀頼が切腹したらしいと記すのみで確認は取れていない(福田千鶴「秀頼の最期」『豊臣秀頼』)。福田によれば、秀頼をはじめとしてほとんどの豊臣方の重要人物の死体は見つからなかったらしい(大伯父の織田信長同様に周囲に火を放って自決したので焼死体が誰の遺体かが判別できなかったと思われる)。

かくして、大坂の陣後まもなくから今日に至るまで、秀頼生存説がまことしやかに囁かれている。上記の民謡はその伝承を歌ったもので、大坂城の隠し通路から戦場を離れて真田信繁とともに九州まで落ちのびたというもの。先に引用した福田は、後年に薩摩藩が秀頼と信繁を匿っているという疑惑が浮上し、島津家が弁明に追われたという挿話も紹介している。

ところが、1980年に大坂城三の丸跡地から秀頼と同年代の人骨が発見され、その丁寧な埋葬と首に介錯の形跡が存在することから、調査団は秀頼の首だと推定した。もっとも夏の陣の三の丸というのは激戦地の真っ只中であるため、そこに埋葬された理由には何らかの解釈が必要となる。大将自ら最後の突撃を試みたのか、それとも影武者が囮となって突撃したのであろうか。



人物編集

肖像画から色白で華奢なイメージを持たれがちだが、一説には身長2メートル近く体重150キロ前後という力士並の逞しい巨漢ともいう。また、武芸にも秀でており、家康も二条城での対面の際に彼の天下人を継ぐにふさわしい風格に恐れをなした結果、強硬に豊臣家を攻め滅ぼす動きに出たとされている。小男の秀吉とは全く似ておらず全然「花のようなる秀頼様」でもなく、淀殿と幼馴染の間柄で、秀吉の死後に異例とも言える出世を遂げた大野治長が実父だったのではないかとの説もある。しかし、祖父・浅井長政が大男、母・淀殿や祖母・お市(さらに大伯父の織田信長)も長身だったとされ、大男であっても不思議はない。母ひいては浅井・織田両家の遺伝子が強かったということになろう。

なお、出典の時代も考慮すべきかもしれない。「花のようなる秀頼さまを」という俗謡が流行ったのは大坂夏の陣直後の上方であるとされているが、巨漢説の出典である『明良洪範』は同時代史料ではなく江戸中期の随筆である。となれば容姿は信長のように華奢であり、巨漢説は太閤贔屓による記述という可能性も否定できないであろう。


他、現代のバレーボールなどの長身選手でも両親は普通の身長というケースもままあり、調査したところ幼少期からの生活習慣次第では第二次性徴が出るのがやや遅くなり、生活習慣が良かったために第二次性徴までに身長がうまく伸びたという結果も出ている。秀頼の場合もこれだった可能性はある。人体の発育特性として、第二次性徴が始まると身長が急激に伸びる場合があるが、そこで身長の増加は頭打ちになる。


「花のような」という文言からナヨナヨとした優柔不断な性格に思われがちだが、近年の研究では聡明かつ強かな若者だったという見解もある。わざわざ家康が徹底した豊臣家撲滅を敢行した一因には、自身の死後にも存続する「秀頼の将器を危険視した」という異説も浮上している。2000年の「葵徳川三代」以降のNHK大河ドラマでは将器あふれる秀頼像が描写されることも増えている。


妻子など編集


他にも庶子が居たと言う説がある。


創作物の豊臣秀頼編集

NHK大河ドラマ編集

弓術の妙技とともに武士の覚悟を見せる、ただの一言で家康を平伏させるなど将器あふれる秀頼像が描写された。

成人後は乱世の夢を追う野心家として描かれていた。


ゲーム編集

豊臣秀頼(戦国無双)


秀吉の最晩年に登場する。能力は並の下といったところ。


関連タグ編集

戦国時代 安土桃山時代 江戸時代 大名

豊臣秀吉 茶々 徳川家康 真田信繁 後藤又兵衛 大坂牢人五人衆

豊臣国松 天秀尼

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