偉大なる前半生「岩見重太郎」
現在ではマイナーであるが、戦前の日本の少年少女たちは岩見重太郎の名を知らぬ者はいなかった。それこそ、猛者の代名詞である武蔵坊弁慶、「日本一の兵」真田幸村、「二天一流」宮本武蔵などと同じく、時代劇のヒーローであった。
岩見重太郎なる人物は正史に記されていないが、現在では薄田兼相の若かりし日の姿がモデル、あるいは同一人物だと言われている。
重太郎は元々小早川隆景の剣術指南役・岩見重左衛門の次男として生まれた。並外れたる達人と言われた重太郎であったが、ある日、父・重左衛門は同門の広瀬軍蔵により暗殺されてしまう。父の仇を討つべく重太郎は仇の軍蔵を追い、全国を行脚する。
その最中に重太郎は数々の伝説を残している。
- 天災を抑える人身御供として、家に白い矢羽根の付いた矢を撃ち込んで、その家の娘を喰らう神がいた。重太郎は生贄の篭の中に潜み、神を待つ。翌朝、篭から出てきた重太郎は、神の名を騙る巨大な狒々の死体を村人の前に晒し、以降ぱったりと天災は病んだ。ちなみにこれが「白羽の矢が立つ」の語源である。
- 滝壺に潜み、春になると水害を巻き起こす大蛇がいた。懸賞金目当てに勇敢な侍や武芸者たちが滝に向かっていったものの、1人として帰って来る者はいなかった。そこに重太郎が現れ、悠々と向かっていった。しばらく経つと川が真っ赤に染まり、全身血まみれになった重太郎が川上から降りてきた。村人は仰天したが、重太郎は「これは返り血だ」と笑い、血を拭った後、その身体に刻まれていたのはほんの掠り傷であった。その後、滝のそばでズタズタに引き裂かれた大蛇の骸が発見された。
- 人の眼球をくりぬく一つ目小僧が出る峠を重太郎が差し掛かったところ、案の定一つ目小僧が襲い掛かってきた。しかし重太郎は一撃で一つ目小僧を斬り捨て、絶叫しながら一つ目小僧は逃げていった。翌日、袈裟斬りにされて死んでいる巨大な化け狸が発見された。
勿論これらは誇大広告であろうが、「重太郎ならその位してもおかしかねーな」くらいに人々は恐れていたのである。これは俵藤太が山を七巻き半するキングギドラのようなサイズの大百足を矢とツバだけで倒したとか、源頼光とゆかいな四天王たちが八岐大蛇の落胤と称する悪鬼酒呑童子を滅ぼしたとか、後に重太郎の敵として立ちはだかる宮本武蔵が姫路城に巣食う刑部姫を退治したとか、そういった類の「箔」である。
(ちなみに1960年代に人気を博したマンガ『オバケのQ太郎』のとある回では、上記3名の逸話と共に重太郎の狒々退治が語られている)
こうして冒険の果てに一騎当千の強さを得た岩見重太郎は、天正18年(1590年)に天橋立にて軍蔵を撃破、見事に仇討ちを成し遂げる。
そしてこの年、太閤豊臣秀吉は小田原攻めを終えて天下統一を成し遂げる。その秀吉の側近「馬廻り衆」として、岩見重太郎はスカウトされた。秀吉没後は、当然その遺児である豊臣秀頼に仕え、ここに彼の第二の人生が始まるのである。
ちなみに近年では真田信繁(真田幸村)も同じ馬廻り衆として知られている。
橙武者、その生き様「薄田兼相」
さて、名選手、必ずしも名監督に非ずという言葉通り、兵卒として強い者が将として勝るとは限らないのが現実である。
岩見重太郎は薄田隼人と名を変えたとされ、それが武将薄田兼相と同一人物であることがほぼ確実視されている。
実際、兼相も兼相流柔術や無手流剣術と言った武術の開祖とされており、相撲でも誰一人勝てなかった以上、非常に優れた「豪傑」であったことは間違いない。
兼相の愛刀は刃渡り三尺七寸(112㎝)と、あの佐々木小次郎の「物干し竿」備前長船長光より長かったとされる。それだけの巨大な野太刀を振り回せる以上、並外れた怪力と剣才を有していたことは疑いない。
ただ、兼相はアホであった。
浅学非才と言いたいわけではなく、大変なドジだったのである。
慶長19年(1614年)、徳川家康率いる幕府軍は大坂城を攻撃。世に言う大坂冬の陣である。兼相は7000もの兵を与えられ、大坂城の西に位置する博労ヶ淵砦を任された。
ここで兼相は砦の堅牢さを過信するあまり、夜に砦を抜け出して遊郭に行ってしまった。だが、そうこうしている内に石川忠総(大久保忠世の孫)や蜂須賀至鎮(正勝の孫)らが率いる東軍が怒涛の如く攻め込み、大将が酒と女にうつつを抜かしている間に、薄田軍の7倍もの軍勢がなだれ込んで陥落した。
朝まで眠りこけていた兼相は叩き起こされ、事の重大さを知るや早馬で駆けつけるものの、とっくの昔に砦には蜂須賀兵が居座っており、這う這うの体で城まで逃げ帰って行った。
このギャグ漫画のような惨敗を受け、人々は兼相を「橙武者」と嘲った。なにせ、大坂城で廊下を歩いているだけでそこら辺にいた小姓からそう呼ばれていたくらいであった。これは別に鎧などがオレンジ色だったというわけではなく、橙の実はミカンに似ているが、でかいばかりで食えたものではなく正月の飾りにしか役に立たないため、「見掛け倒しで中身が無い」という悲惨な蔑称である。
フォローしておくと、兼相は人格的にはそこまで無能だったというわけではない。真田信繁の周りを顧みない行動が原因で、後藤又兵衛と諍いを起こしてしまった際は、毛利勝永と共に怒り狂う又兵衛を宥める役目を担っている等、協調性に欠けている牢人達の中では比較的良心的な存在となっていた為、丸っきり役立たずな存在では無かったと言える。
さて、戦いに全てを賭けていた豪傑(笑)は悲しみに打ちひしがれるが、そうこうしている内に家康は天守閣に大砲を撃ち込むという強硬手段を取り、和議が成立。約束を反故にして堀は全て埋められ、激怒した淀殿により翌慶長19年(1614年)、大坂夏の陣が勃発する。
汚名を雪ぐべく兼相は冬の陣の1/100以下の数十騎を与えられ、又兵衛に追従し、徳川軍を迎え撃つこととなる。
しかし5月6日未明、戦場となった道明寺(現大阪府藤井寺市)は霧に包まれていた。薄田軍は後藤軍に追従するもはぐれてしまい、孤立している内に前方からやおら怒声と銃声が鳴り響く。
兼相が駆け付けた時には、既に伊達政宗と水野勝成、更に松平忠明(奥平信昌の四男)らにより、又兵衛は討ち取られていた。
また、間に合わなかったのである。
また、救えなかったのである。
兼相は覚悟を決めた。かつて仇討ちに燃えていた青春時代のように。
自ら野太刀と槍を持ち、兼相は突貫する。相手は上記のメンバーの中に片倉重綱や本多忠政、挙句の果てには宮本武蔵まで混ざっているようなドリームチーム。勝てるわけがないのは眼に見えていたが、男には負けるとわかっていても戦わねばならない時があるのである。
「何だあいつ橙武者じゃねーの」と嘲っていた東軍兵たちは、瞬く間に兼相の振るう白刃の錆びとなっていった。兼相の恐るべき奮戦ぶりは、まさに狒々退治の英雄そのものの姿であった。槍が折れ、野太刀が鈍らと成り果てても、兼相は馬から降り、素手で敵兵を薙ぎ倒していく。
東軍の総攻撃を受け、遂に兼相は誰の血ともわからぬ血だまりの中に倒れ、息を引き取る。
そして程なくして大坂城は落城し、豊臣の栄華は露と消えていった。
彼と同じ「隼人」の名を勇者の代名詞とする島津家では、薄田兼相は「古今東西、類稀なる勇士なり」と記されている。
虎は死して皮を残し、橙と嘲られながらも文字通りに命懸けで最後まで戦い抜いた兼相は、真田幸村や後藤又兵衛と同じく敗死しながらも「英雄」として名を遺した一人となり、現在も民衆のヒーロー「岩見重太郎」として名を残したのである。
余談
- 『信長の野望』シリーズでは、作品にもよるが政治や智謀が1という清々しいほどの脳筋パラメーターで知られる。特に智謀に関しては鬼小島弥太郎や一条兼定らと共に最下位争いをしていた。武力もそれほどでもなかったが近作では知力に関しては並レベルまで向上している。