概要
公許の遊女屋を集め、周囲を塀や堀などで囲った区画。安土桃山時代から昭和30年代に存在した。
1584年(天正13年)、豊臣秀吉の治世に、今の大阪の道頓堀川北岸に遊女が集められ、最初の遊廓がつくられたといわれている( → 遊廓も参照の事)
その時代の「政府公認」の女遊びの場。遊女が宴席で男性客に踊りを始めとする遊芸を見せ、春をひさぐ場所である。大きな都市の郊外に設置される事が多く、その土地の遊郭ごとの決まり事やしきたりがあった。
遊郭の中でも、格が高い見世の高級遊女と肌を合わせられるのは、多額の金を積み、いくつもの手順を踏んだ馴染み客だけだった。現代で言うと高級クラブに近い大人の遊び場である。
しかしそれ以外の遊女は客を選ぶことは出来ず、誰にでもわけへだてなく色を売った。
なお、江戸時代には遊郭以外の街頭や旅籠(はたご)などで売春を行う女性も居た。こういった私娼の集まるの売春街は岡場所などと呼ばれ、さらに安く手軽に女を買うことができた(ちなみに江戸時代中期頃までは男を買うのも普通だった)。
遊女たちは、さまざまな境遇から 多額の前借金を背負って遊女屋に年季奉公しており、その借金を返済するため身を粉にして働いていたとされ、江戸時代は実質的な人身売買が行われていたと言われる。遊郭の隆盛は明治以降、さらには戦後GHQの指令により公娼制度が廃止されても続き、貧しい親の借金の肩代わりに、遊郭に売られる娘が後を絶たなかった。
遊郭の隆盛の灯が消えたのは昭和32年(1957年)、売春防止法が成立してからのことである。
遊郭を描いた作品は江戸時代、あるいはそれに似せた世界観が多い。
遊郭を舞台とした二次創作でも、それは外れない。
正当化・相対化の言説
概要の節で説明されているような内容に対し、
「と、ここまでは戦後において広げられてき印象だが、実はこれらは西洋的な思想・見識から見たものである。
西洋では、娼婦(売春婦)は身分は低く、卑しい職業・屈辱的な立場に置かれた人と見られていたが、日本においては決してそのようなものではなく、生活手段として市民権を得ていた。」
……としたり、遊郭を「セーフティネット」とする言説が存在する。
実際
彼女達は農村での口減らしのため、親の借金のカタのため、という形で売り飛ばされそれぞれの遊女屋に買い取られた存在である。
江戸から離れた農村・漁村にも女衒(ぜげん)と呼ばれる人身売買業者が出没し、集落を回りながら少女たちを仕入れていった(梅毒に感染も。江戸時代における遊女の一生が過酷すぎる【画像あり】)。
彼女達は遊女屋の楼主が扱う商品であり、圧倒的な不利な立場のもと性的に搾取されることを余儀なくされた。
例えば新吉原では時代によって3000人~5000人の遊女がいたが、太夫や呼出と呼ばれる高級遊女はごく一部であった(知られざる遊女たちの実像 新吉原遊郭最新研究)。
彼女達には「仕打ち」と称する折檻が行われ、暴力によっても支配されていた。
遊女に飼われた猫の墓はあっても遊女の墓が作られなかったり、彼女達の遺体は専用の寺に投げ込まれるように処理された。こうした寺を「投げ込み寺」という。
彼女達の身分は事実上、遊女屋の楼主の所有物であった。はじめての客をとる遊女に対し、服を剥ぎ、土間に蹴落とし「ネコメシ」を食べさせる形で象徴的に「畜生」に堕とす儀式も存在した(遊女は「経営者」から「人間ではないもの」に変わっていった…ゾッとする【性差の日本史】)。この儀式では仕上げに「オトコサマ」と名付けられた張り型でもって「実技」の訓練が行われた(驚きの連続「性差の日本史」展 歴博、売買春にも切り込む)。
格式の高い遊女たちの煌びやかな服装は自腹である事が多かった(習俗と遊里 遊里のひとびと 身請け)。その費用を回収するためにも高い料金を得るしかなかったのである。
吉原は格式が非常に高いとされ、奉公に行くと歌や踊りだけでなく、読み書きから俳句・茶道・華道・香道・書道など、果ては古典に至るまで、高い教養を仕込まれた者もいた。
これは客が大名や旗本、豪商といった人々であったため、高度な教養を備えていなければならなかったためである。
また、これだけ教養を身につけていると、妻に迎え入れられることもあり、そうして身請け(有料かつ高額)してもらって「いいところの家」に嫁いでいくわけであり、いわゆる『玉の輿』が行われていたりもした。
が、そのような事例はごく一部。思い人がいても相手が大金を払えず身請けができない場合は入水自殺も行われた。駆け落ちしようとすれば、それは商品の持ち出しに他ならず、罰の対象となった。
そもそも、ろくな避妊手段の存在しない時代に客をとらされる、という事は妊娠の確率が極めて高いという事である。
繰り返される妊娠と堕胎により体はボロボロになり、子供を妊娠しづらくなるという事態が起こり、結婚相手として敬遠されることも少なくなかった。
医学が未発達な時代、梅毒などの性病は治療不可能なものであり、そのまま亡くなる人も多かった。
格式が高いとされていた吉原でも19世紀以降は非道な扱いに耐えかねた遊女達が放火事件を幾度も起こしている。
海外の著名人の評価
遊郭の正当化・相対化の根拠として、幕末に日本を訪れた外国人エリートの言葉が引き合いに出される事がある。
幕末に来日した外国人の多くは超エリートたちであり、彼らが日本において目にすることになるのは「表向き」の輝かしい光景であった。西洋の娼婦にも高い教養を持つ層は存在したが、彼らは日本においてもそれを見、しばしばセックスワーカーの立場そのものが西洋とは全く異なっている、という認識を持った。
明治元年に来日したオーストリアの外交官であるアレクサンダー・F・ヒューブナーは、嘘だと疑ってなかなか信じようとはしなかったという。
来日した海外の著名な学者や要人たちは、日本の遊郭について、以下のように語っている。
「貧しい親が年端も行かぬ娘を何年か売春宿に売り渡すことは、法律で認められている。契約期間が切れたら取り戻すことができるし、さらに数年契約更新することも可能である。この売買契約にあたって、親たちは、ちょうどわれわれヨーロッパ人が娘を何年か良家に行儀見習いに出すときに感じる程度の傷み(いたみ)しか感じない。なぜなら売春婦は、日本では、社会的身分として必ずしも恥辱とか不名誉とかを伴うものではなく、他の職業とくらべてなんら見劣りすることのない、まっとうな生活手段としてみなされているからである。娼家を出て正妻の地位につくこともあれば、花魁あるいは芸者の年季を勤めあげたあと、生家に戻って結婚することも、ごく普通に行われる」(慶応元年(1865年)来日、ドイツ考古学者ハインリヒ・シュリーマン博士)
「彼女(遊女)たちは消すことのできぬ烙印が押されるようなこともなく、したがって結婚もできるし、そしてまた実際にしばしば結婚するらしい。夫の方では、このような婦人の方が教育があり芸のたしなみもあるというので、普通の婦人と結婚するよりも好ましいわけである」(安政6年(1859年)来日、イギリス公使ラザフォード・オールコック)
「日本のゲーコは、ほかの国の娼婦とはちがい、自分が堕落しているという意識を持っていないのが長所である。日本人の概念からいえば、ゲーコの仕事はほかの人間と同じくパンを得るための一手段にすぎず、(西洋の)一部の著作家が主張するように尊敬されるべき仕事ではないにしろ、日本人の道徳、いや不道徳観念からいって、少なくとも軽視すべき仕事ではない。子供を養えない貧しい家庭は、金銭を受け取るのと引換に子供たちを茶屋の主人に預けても別に恥じ入ったりするようなことはないし、家にいるより子供たちがいいものを食べられ、いいものを着られると確信している」(慶応2年(1866年)来日フランス海軍エドゥアルド・スエンソン士官)
彼等が来日した時から10年から十数年前に起こった事件が嘉永二年(1849年)の放火事件で、前述の19世紀以降頻発していた遊女による放火事件の一つである。
吉原の梅本屋という店舗の遊女16人によるもので、放火した後、消火活動で現場が混乱しているうちに名主役宅に行き、そこで経営者の非道を訴えるという計画的なもの。役人から裁きを受けることを前提とした行動であった。
調書に含まれた日記では腐った飯しか与えられず、死にかけるほどの折檻を受けるという凄惨な体験が記されている。
そもそも、もしも「遊女の立場そのものが海外と違って良い」のだったら、最も格式が高いとされた吉原を塀や水路で囲む理由などない。
脱走者が出るような場所だからこそ元吉原は塀が巡らされ、新吉原は「お歯黒どぶ」で囲まれ外界との出入り口が一つにされたのである。
とある川柳
「寄りたまえ 上がりなんしと 新世帯」
この川柳は元遊女を妻に迎え、まだ遊郭言葉が抜けきらない新婚カップルを詠んだもので、このような川柳が詠まれるほど遊女の結婚は一般的であり、日本では売春が決して恥ずべき職業ではなかったことをあらわすものとしてよく取り上げられる。
が、芸娼妓解放令の時代にはなじみの若者との結婚を望んで自由を得ようとした「かしく」という遊女が身元引受人から拒絶され、役場にも明確に意思を伝えたにもかかわらず受け入れられずにたらい回しにされている。
「かしく」の記録はここで途絶えており、二人がどうなったかはわからない。
解放令以降、遊女たちは、「自分から春を売る事を選んだいかがわしい存在」として更に世間の裏側の世界へと追いやられていくことになる。
上述の川柳は「売春が決して恥ずべき職業ではなかったことをあらわす」のではなく、お上の容認下で危ういバランスのもと部分的に成立していた幸運な事例の反映に過ぎない。
参考文献
- 聞書き 遊廓成駒屋(著:神崎宣武、出:ちくま文庫)
- 時代小説「江戸」事典(著:山本眞吾 出:双葉文庫
- シュリーマン旅行記 清国・日本(著:ハインリヒ・シュリーマン 訳:石井和子 出:講談社学術文庫)
- 江戸幕末滞在記 若き海軍士官が見た日本(著:エドゥアルド・スエンソン 訳:長島要一 出:講談社学術文庫)
- 大君の都(著:ラザフォード・オールコック 訳:山口光朔 出:岩波文庫)
- 絵で見る幕末日本(著:エメェ・アンベール 訳:茂森唯士 出:講談社学術文庫)
- 日本人なら知っておきたい 江戸の庶民の朝から晩まで(編:歴史の謎を探る会 出:KAWADE夢文庫)
- 江戸明治 遠き日の面影(出:双葉社スーパームック)
別名・表記揺れ
関連タグ
遊女屋 / 傾城屋 / 妓楼 張見世 置屋 茶屋 / 引手茶屋
山の手言葉・お嬢様言葉:上述の通り遊女が上流家庭に嫁ぐことが珍しくなかったことの傍証として、明治・大正の頃の東京山の手の女学生が用いていた言葉に遊女特有の言葉遣い(廓詞)の影響があるという指摘が存在する。
桂歌丸:永真遊郭街(神奈川県横浜市)の女郎屋出身の落語家。実家が遊郭という事から幼少期から見慣れていた女性の化粧姿の形態模写を得意としていた。