ピクシブ百科事典

女衒

ぜげん

主に若い女性を買い付け、遊郭などで性風俗関係の仕事を強制的にさせる人身売買の仲介業であり、人買の一種である。
目次[非表示]

概要

主に若い女性を買い付け、遊郭などで性風俗関係の仕事を強制的にさせる人身売買の仲介業であり、人買の一種である。古代からこのような職業が存在していたと考えられている。

歴史

日本では、古くは女見といったことがあるらしい。「七七四草」には「女見の女を衒(う)るところより、女衒と書き、音読み転訛してゼゲンと呼ばれるに至れるならん」とある。女見は文字通り娼婦としての商品価値を見極める意で、その目利きの良い者を呼んだ。

江戸時代

時代が下って江戸時代になると、老中松平定信の時に江戸幕府は寛政7年吉原規定証文の作成励行の前、寛政4年5月に女衒禁止令ともいうべき法文を発布、これを以て女衒を単に遊女奉公の口入れにとどめ、証書の加印を廃止し、内に居住させ名主がこれを監督するという条件で許可を得て存続させた。
その一方で加印のある証書は遊女の親族にあらため、女衒の慣習上の権利を剥奪した。この結果、公認・非公認の女衒による合法・非合法の二極化が進行することとなった。
しかし、このような取締令も効果は薄く、すでに各地に根を張っていた非公認非合法な女衒は法の網をかいくぐって岡場所や宿場女郎を扱い続けた。
一方、公認合法な女衒は、天保年間には新吉原関係の女衒だけでも廓外に14、5軒の家を構えた。その中でも山谷の近江屋三八なる女衒は10余人の子分を使って自らも各地を奔走し、扱った公娼の遊女は数百人にのぼる。人身売買は禁止された。が、それは建前であり、依然として人身売買は行われていた。

明治から現代

明治時代に人身売買禁止法が制定された後も貧しい家では女衒により売買が続行され、娼婦として売り飛ばされていった。

大正15年(1925年)に日本は国際連盟の「婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約」を批准しているが、大正、昭和の日本では内地(本土)の女性以外にも、日本領だった朝鮮や台湾出身の女性を、女衒の仲介を経て慰安婦にしたり、遊郭に売ったりした。

このような行為は高度成長期初めまで続くが、昭和三十四年に政府が売春防止法を施行して公娼制度を廃止すると、それと同時に女衒も自然消滅したが、現代でも特定のイベントや映像・写真撮影会等で女性が必要な時、風営法による飲食店・ホテル・テーマパーク、パーティー業者が行う派遣要員による酒席における接待行為等は、一部で芸能事務所(プロダクション)からその人材の斡旋をうけていることがある。
これらは必ずしも違法性を伴うものではないが、現代の女衒と揶揄されることがある。
現在では、上記のような接待行為に係わる人材派遣(特に外国人による接待行為)の仲介業に対して「ヒューマントラフィッキング」という言葉が使われている。
(ウィキペディアより抜粋)

女衒の生態

女衒は人買い家業であり、判人ともいう。
浅草の山谷町や田町あたりに多く住んでいた。農村をまわり貧しい農家の娘や、零落した商家や武家の娘を妓楼に仲介することもあった。
給金を前金で受け取って年季奉公するという形をとり、親と女衒、女衒と妓楼の間で証文を取り交わした。なかには誘拐した女の子や、男にだまされた女を売り飛ばす悪質な者もいた。そういった場合、女衒が親や叔父の代わりになって年季証文に判を押していた。
女衒は大抵縞の半合羽を羽織のかわりに着ていた。
「世事見聞録」に、
「かどわかしというものありて、群集の場所、または黄昏の頃、遊び迷い居る子を奪いとりて、遠方などへ連れ行きてついに売るなり」とあり、神隠しといわれる子供の行方不明事件には、女衒に連れさらわれたものも少なくなかったであろう。冷酷非道でなければできない稼業である。
(以上・永井義男著「図説 吉原辞典」より)

関連タグ

遊女 人身売買 遊郭

pixivに投稿された作品 pixivで「女衒」のイラストを見る

このタグがついたpixivの作品閲覧データ 総閲覧数: 855

コメント