概要
京都市下京区に位置する花街の名称。正式な名称は「西新屋敷」。
幕末時、京都で唯一の幕府公認遊郭であった。新撰組と縁が深い事でも有名。
現在は、角屋という揚屋が一軒、輪違屋(わちがいや)という置屋が一軒だけ残っている。
由来と成り立ち
1589年(天正17年)、豊臣秀吉は京都再興のために二条柳馬場に遊女屋を集め、京都最大の遊郭を開くことを許可した。その遊郭はやがて六条新地(現在の東本願寺の北)に移され、「六条三筋町」として栄えた。
さらに江戸時代に入り、京都の人口が増えると、官命により、寛永18年(1641)に朱雀野付近に移された。その移転騒動が「あたかも島原の乱の如し」と流布したことにより、「島原」と呼ばれるようになったといわれている。
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開設以来、公許の花街として発展したが、単に遊宴だけを事とするにとどまらず、和歌や俳諧などの文芸が盛んで、江戸時代中期には島原俳壇が形成されるほどの活況を呈した。
島原は老若男女の出入りも自由で、廓の女性達も手形があれば自由に廓の外へ出ることができた。江戸の吉原と比較すると開放的な町であったといわれる。
島原の太夫は「こったいさん」と呼ばれ、正五位の官位を持ち十万石の大名に匹敵するとされた。御所において天皇への謁見を賜ることも可能であった。「こったい」の語源は「こちらの太夫さん」をもじったなど諸説ある。
公家や皇族を相手にするため、高い教養が必要で、茶道、和楽器、唄、書道、香道、華道、詩歌、古典的遊び(貝合わせ、囲碁、盤双六、投扇興など)に通じていたとされる。
なお、「島原の太夫や芸妓は体を売らなかった」「島原は遊郭ではない」という説があるが、戦前の内務省警保局の公式見解によると、島原は遊郭であるとされている。
当時の芸妓は、貧しい家の娘が10歳くらいで身売りし、多額の前借金を背負って芸者屋に年季奉公するのが普通で、年季奉公契約書には、「抱え主から売春の指示があればそれに従い、借金返済のため努力する」旨の条項があった。
(注) 当然だが現在の芸妓は体を売らない。日本の古典文化を継承し、研鑽した芸のみを売るおもてなしのプロである。
京都の六花街の一つに数えられるほど栄えたが、立地条件の悪さや格式の高さが原因で、祇園など他の遊里に客が流れて徐々に衰退し、花街としての営業は昭和52年(1977)で途切れている。
別名・表記揺れ
関連タグ
外部リンク
公娼と私娼 (近代デジタルライブラリー) ※内務省警保局が昭和6年に作成した資料